“探す”から“届く”へ 開かなくても、ちゃんと毎日届く安心感。気づけば届いている、あなた専用の情報便、the Letter
突然ですが「冷めたピザ」をご存じでしょうか?これは今から18年前、1998年7月に総理大臣に就任した小渕恵三元首相に対して言われた言葉です。
|
「PR」 |
自民党内で総裁候補として上がった数人のうち、あまり目立たなかったので、田中真紀子氏が「凡人」と名づけて話題にもなりました。欧米メディアでも冷たい論調が多く、アメリカのニューヨーク・タイムズ紙は小渕元首相を「冷めたピザ」と表現したのです。
この「冷めたピザ」という呼び方が広まり、ついにアメリカのTIME誌は本物の「冷めたピザ」を持参して首相公邸でインタビューと撮影を実施。「悪ノリしすぎ」と首相秘書官は不快だったようですが、当の小渕元首相は気にせず笑顔でピザを抱えて撮影に応じ、1999年4月号のTIME誌の表紙を飾りました。
|
|
|

それがこの時の写真ですが、この姿をファインダー越しに見てその瞬間を撮影した写真家が、4月に藤井寺駅近くにスタジオを移しました。その人の名前は小串周三さん(以下、小串先生)です。
ちなみにわかる人にだけわかる話になりますが、この方は筆者とは血縁や家族関係はありません。
大阪市内にスタジオを構えていた小串先生は、写真家歴50年で、半世紀もの間ファインダーを覗き込んでいたレジェンド中のレジェンド。年齢的なこともあり、郊外ででのんびり自分の好きな仕事だけを行いたいということで、この4月に藤井寺に拠点を移したそうです。
実は小串先生は、筆者の昔の仕事の関係でご縁がある方でした。今回南河内の藤井寺に拠点を移されたということで、改めてじっくりとお話を伺うことにしました。
※今回はプロ写真家のレジェンドということで、いつもとは趣旨を変え、基本的に小串先生から掲載許可を頂いた作品及び小串先生の写真集を撮影したもので画像構成しています。小串先生の素晴らしい写真をご覧ください。
写真家になった理由といきなりの独立

小串先生は大阪市生野区出身で、天理大学に進みます。学生時代、ロシア革命前夜のユダヤ人迫害を背景に、ウクライナのユダヤ人一家の生活を描いたミュージカル「屋根の上のヴァイオリン弾き」がきっかけで、ロシア語に興味を持ったそうです。そしてアートの世界にも目覚めます。
|
「PR」 |
「絵と違い、すぐに出来上がるから」と、当初はアートの中でも写真に対するイメージがあまり良くなかったという小串先生ですが、にもかかわらず写真家の道に進んだのは、小串先生のお父さんが退職金でニコンのカメラをプレゼントしてくれたことに加え、一度写真撮影を始めると、その世界にどんどん嵌っていったからです。
さらに、デザイナーの友人と意気投合し「写真とデザインのコラボができる」ということでふたりで事務所を作る目的で、大阪写真専門学校(現:ビジュアルアーツ大阪校)で2年間写真を学びました。ここでは撮影だけでなく現像技術も学びます。
そんな小串先生は、その時もまだ写真に対して低い目で見ていたところがありました。「プロでやっている人の外見の印象として、ただおしゃれにだけこだわっている、チャラい連中に見えたから」
そんなこともあり、専門学校時代は真剣に勉強というより遊んでいたという小串先生。卒業後、いざ仕事をするときにいろいろ苦労したと言います。
それでも他の生徒とは違う点がふたつありました。普通は学校を卒業するとアシスタントをして経験を積んでから独立するのに、小串先生はいきなりスタジオを構えたのです。
|
|
|
しかし、当然ながらスタジオを構えてもすぐには仕事が来ません。クライアントゼロからのスタートでしたがそれでも良かったことは、並行して1972年に専門学校の講師になれたからでした。
「生徒に撮影のアシスタントをしてもらえた」という小串先生。また博多の学校でも、しばらく講師業をしたそうです。
アメリカに挑戦

当時は普通紙複写機(コピー機)がようやく出始めたころ。しかしまだ値段が高すぎて今ほど普及しておらず、その代わりとして図面を写真で撮影することで複写の代わりとして使われていました。
|
「PR」 |
講師業と並行して1977年にスタジオ・オポを開設していた小串先生は、上記もふくめた様々な仕事も淡々と続けていたのですが、「一度すべてを捨てて再挑戦したい」ということで、突然渡米することにしました。それが1982年のことです。アシスタントの経験のなかった小串先生は、今からでもアシスタントを経験したいという思いもあったため、未知の国へと旅立ちます。
何も伝手のないまま、単身渡米した小串先生。たくさんのスタジオにコンタクトを取るうち、サンフランシスコにあるアイザワ・アソシエイツから声がかかったのです。
代表のアイザワ氏に作品を見せたところ、「しっかり撮れているじゃないか、アシスタンドじゃなくフリー契約をしよう」ということとなり、そうしてフリーランスフォトグラファーになります。

また広告代理店の知人を通じてビザが取れたことで、現地での活動が可能になりました。具体的にはファンシーグッズのカタログの物撮り(パンフレット用の写真撮影)などが多かったそうです。
小串先生はフリーランスの仕事と同時に、専門学校のアカデミー・アートカレッジにも行き、アメリカでも写真を学ぶことになります。こうしてアメリカ生活にも慣れてきたこともあって、すでに結婚をしていた小串先生は、家族をアメリカに呼び寄せます。

その翌年にスタジオ・オポ ロサンゼルス・ブランチを開設。その理由は単純にサンフランシスコよりロサンゼルスのほうが仕事が多かったからです。
とはいえ、当時は1985年9月の「プラザ合意」前ということで、円がとても弱かった時代。家族5人の生活は決して楽ではなかったのですが、小串先生によれば「アメリカの印象は悪くなく、貧乏生活ですら面白い経験になった」と言います。
小串先生は、このインタビューの中で、アメリカ時代で印象に残る人をひとり挙げました。それはヒロシ キタムラ(北村浩)氏です。
キタムラ氏の経歴を見ると、1972年、ハサミ一本で世界のファッションを変え、現代のカット技法の基礎(サスーン・カット)を築いた美容界の革命児「ヴィダル・サスーン」の元で修業。1978年に独立をしてから、ビバリーヒルズを象徴するサロン経営者としてして、今も活躍している方です。
|
「PR」 |
「彼は日本人であることをアピールするように、侍や空手を彷彿とさせるカットの所作が特徴で、ハリウッド映画関係者やセレブの多いビバリーヒルズでも大人気だったんですよ。そのため、かなり料金設定も強気でした」

小串先生はアメリカでの活動を4年くらい行ったのち、日本に戻ります。その理由は子どもが小学生になる時期という教育問題があったからです。それに加え、表向きはともかく、裏ではまだまだ人種差別的な問題があったことも気になりました。「そろそろ日本に戻るタイミングかな」と考えたそうです。
|
|
|
後にTIME誌の写真家として活躍する小串先生ですが、アメリカ生活での経験がTIME誌との相性に繋がったのかなと私は感じました。
帰国後、十二代目市川團十郎らを撮影

1987年ごろに日本に帰国した小串先生、時代はバブル期に差し掛かっていたころ。ちょうど昭和から平成に変わるタイミングだったそうです。
また近鉄百貨店のファッション系の撮影の仕事など、アメリカでのブランクを感じさせるどころか渡米経験が完全に強い経歴として、様々な仕事を受けていきます。

1991年になると大きな仕事が舞い込んできます。イギリス環境保護団体「ナショナル・トラスト」の取材撮影に続き、Be Commonの撮影の仕事を手掛けます。
Be CommonはNHK出版とJR西日本タイアップで制作・発行したPR誌・冊子で、ここで各界著名人の思い出の場所に同行取材し、撮影する仕事を行いました。
代表的な人物として、十二代目市川團十郎(先代團十郎)や篠田正浩監督などの撮影を行いました。「将棋の羽生名人も撮影しましたね」と小串先生。この仕事で、著名人のバックボーンを写真に投影していくことが面白いと感じたそうです。
|
「PR」 |
TIMEとの出会い

そして、冒頭に書いた小渕元首相の撮影につながるTIME誌との出会いとなります。
小串先生の幼馴染の中に、同様に海外を仕事の舞台にしている人がいましたが、その人はシンガポールで医者として成功を収めていました。その人が香港に引っ越しをすることになったのでシンガポールでパーティをすることになり、小串先生も幼馴染みのよしみで渡航します。
幼馴染は成功者ということで、そのパーティーに多くの著名人が参加したのですが、その中にTIMEの編集長も招かれていたのです。そんなことも知らない小串先生は、たまたま隣の席になった時に自身が写真家であることを話します。
|
「PR」 |
その時から間を置かず、TIMEの編集長から「日本のある宗教団体が大きなミュージアムを建設したらしい。取材してくれないか」と仕事の打診がありました。

こうして小串先生はTIMEの仕事を受けることになります。ちなみにそのミュージアムとは滋賀県甲賀市にあるMIHO MUSEUMです。1997年11月の開館直前の仕事ということで、撮影が終わり納品したところ、「内容が良かったから」と、TIMEから当初の契約金額よりも倍の報酬が支払われたそうです。
こうして日本でのTIMEの仕事を手掛けることになった小串先生、小渕元首相以外にも、数多く撮影しました。

さて、小渕元首相の撮影時のエピソードを教えていただきました。
|
|
|
相手が現役の首相ということで、当日かなり短い時間の中で撮影しなければなりませんでした。ピザは事前に用意してありましたが、恐る恐るお願いしたところ、いやな顔もせず手に持ってくださり、世界的に話題となったあの写真が撮影できたのです。
しかしながら小串先生自身は短い時間で撮影したこともあって「失敗した」と。その日の仕事帰りにヤケ酒をあおったほどでした。ところが後日見事に表紙を飾ったのを見て驚くやら嬉しいやら。
このことは、小渕元首相も当時のインタビューで「表紙になるとは思わなかった(外部リンク)」と答えています。
「とにかく小渕元首相はとても良い人だった」
小串先生はファインダー越しに元首相を見つめた時の感想を、当時を懐かしみながら話してくれました。
|
「PR」 |
ドン・モリソン TIMEアジア編集長(当時)(外部リンク)も、小渕元首相について「とても魅力的な人物だ」というコメントを残しています。
写真集の発行と写真展の開催

TIME誌で活躍していた小串先生は、自らの実績を多くの人に知ってもらうために写真集と写真展の開催を行います。実際に写真展などには多額のお金がかかります。しかし、当時できる環境にあったと言います。
「シンガポールの幼馴染が病院を売却したんですが、それで得た収益の一部をサポートしてくれました」と、とてもスケールの大きな話をされました。
素敵な写真を撮り続ける幼馴染のためにということですが、そのおかげで以下の写真集と個展が開けたのでした。
|
|
|

- 1998年9月 写真集「SHUZO OGIUSHI」をシンガポールで出版
- 1998年10月 写真展開催「大阪/ギャラリー・クラヌキ」
- 1999年2月 写真展開催「ニューヨーク/シンクロニシティ・スペース」
これらの撮影での面白いエピソードとして、小串先生は撮影するためのモデルをナンパしようと考えます。パーティ会場でモデルになりそうな人を探して良い人がみつかったと思ったら、本物のモデルだったとのこと。そこでホテルを借りて撮影会を行ったそうです。
|
「PR」 |
「有名人に翼を付けたら?」21世紀以降の活躍

21世紀になってからも小串先生は精力的に活動しています。2002年には近鉄上本町店で開催された「エンジェルアート展『小串周三とその仲間たち』」という展覧会も実施。
「あの時に撮影した著名人は、みんなボランティアで参加してくれたんですよ。20~30人だったかな、翼をみんなにつけたらどうなるかなと思って」
参加した著名人はピアニストのフジコヘミングさん、作曲家・編曲家・コラムニストの三枝成彰さんなどです。これが縁となり、2年後の2004年にはフジコヘミング1万人のチャリティコンサートの企画にも参加しました。
|
|
|

その後、2010年には1000人のポートレート(肖像写真)を企画。もともとポートレートを撮るのが好きだったから実行したことでしたが、それは、ただきれいに人を撮るのではなく、対象者のこれまでの生きざま、人間性などを1枚の写真にどう投影させるかということを、小串先生ならではの感性で表現したもの。実際にその作品を拝見して、その力強さには驚かされます。
|
「PR」 |

2014年にはロシアのサンクトペテルブルクで、「写真歴40周年記念タブロイド版紀行写真集企画制作」に携わります。タブロイド版とは新聞を半分にしたサイズ(約27cm×40cm)のこと。A4の一般的な写真集より大きなサイズの写真集です。
小串先生によればこれもきっかけがありました。facebookの友達の中にサンクトペテルブルクの人がいて、そのやり取りの中で写真の話で盛り上がり、撮影するためにサンクトペテルブルクに渡航することになります。
そのfacebookの友達とは、なんと現地では最も有名なダンサーでした。こうして現地で撮影をしていくうちに、その人からも「ポートレートの撮影に向いている」と言われたそうです。

2019年にはクラウドファンディングを成功させ、タブロイド版紀行写真集の第2弾「心の旅 ブエノスアイレス無形文化財 タンゴのマエストロ」を作成しました。
「動きのあるダンサーの撮影は大変では?」と素人の私は思うのですが、小串先生は「ダンサーは踊りながら自己主張するので、撮影側としてはむしろやりやすい」とのこと。
|
|
|

2020年以降コロナ禍の影響はありましたが、それでも以下の撮影に携わっています。
|
「PR」 |
- 2021年10月 坂井亮一夫婦(ゆらぽい&itococochi)展
- 2021年11月 バイオリニスト・大岡仁撮影
- 2022年3月 ファッションデザイナー「Keigo Yamauchi」作品撮影
- 2024年2月 ペット・チャリティー撮影会(レスキュー協会へ寄付)
- 2024年8月 彩irodori百花繚乱・つまみ細工Ayako Funakoshi企画撮影会
- 2024年11月 NY在住Yukari Edamitsu 亀山トレンナーレ展 撮影
- 2025年4月 NHK大阪児童劇団撮影
- 2025年4月 スタジオ・アルベール写真コミュニティ用プロモ動画撮影
- 2025年6月 吉本芸人「おたまじゃくし中西」撮影
|
「PR」 |
今後は地域の人たちの記念の一枚を

「そろそろ年だし」と、2026年4月に大阪市内のスタジオを引き払い藤井寺に拠点を移した小串先生。
最近はスマホで簡単に撮影出来たり、AIなどが台頭する時代になりましたが、半世紀もの撮影人生を持つ小串先生は、それに否定的かなと思いきや「AIやスマホで一般の人が撮影を楽しむのは良いこと」と言います。その一方で「プロの作品ももっと多くの人に認めてもらえるようになったら」とも。
そして今後は、藤井寺をはじめ南河内の地域の人たちのポートレート撮影ができればと言います。ポートレートは、ただ撮影だけをするのではなく、目的、自分のやりたいこと、感じたことなどを聞いたうえで、後は半世紀培ってきた経験をもとに撮影します。
|
|
|
1件につき、多い時には数百枚、千枚近く撮影することもあるという小串先生。具体的には小串先生との相談になりますが、1件当たりおよそ5万円(ヘアメイクを付ける場合は場合は+1万円)ほどで対応してくださるそうです。最後に「記念写真は元気な時に撮影した方がいいですよ」と締めくくられました。
取材が終わって

ということで、小串先生について取材しました。ファインダー越しに、半世紀もの間、元首相の撮影をはじめ様々な著名人を撮影し続けた小串先生。お話はいずれもスケールの大きなものばかり。そんな方が縁あって藤井寺に移り、これからはその場所を中心に活躍されます。南河内でどんな素敵な作品が生まれるのか、楽しみな展開となりました。
|
「PR」 |

|
|
|
この記事を書いた人
奥河内から情報発信
大阪府河内長野市在住の地域ライター・文筆家。2021年に縁もゆかりもない河内長野に移住し「よそ者」の立場で地元の魅力・町が元気になるような唯一無二の文章執筆、情報を発信しています。
登録いただいた方には、少し踏み込んだ情報もお届けします。 通常の記事に加えて、登録者限定の裏話も配信! ここだけの話も、そっとお届けします。



コメント