【富田林市】地元の人が忘れた歴史を掘り起こせ!6月28日河内にわかで天誅組河内勢公演を前に尻谷座長の半生と地元への思い

インタビュー記事

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3月まで担当したYahoo!ニュースエキスパートの規定で一時期、富田林市の担当を離れていたこともありましたが、それまでの4年間、富田林市の情報発信を積極的に行っていたこともあり、住んでいる河内長野とは別に、富田林の方々との交流も多くあります。その中でも、5本の指に入るほど印象深い人物がいます。

それが喜志在住の尻谷廣海さんです。尻谷さんは喜志で農業を営む傍ら、初夏には奇跡の復興米の田植え、真夏には河内音頭の音頭取り、秋には復興舞の稲刈りや美具久留御魂神社の秋祭りで河内にわかの指導、そして冬には富田林和太鼓まつりを主導するなど、一年を通じて地域文化の継承と発展に尽力されています。

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そして6月28日には、すばるホールで、下水分社にわか連喜楽座による河内にわか公演「明治維新のさきがけ、若き志士たちの天忠組」が行われます。この機会に喜楽座座長でもある尻谷さんの半生がとても気になった私は、インタビューをさせていただきました。


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中学生の時に文部大臣から表彰を受ける

喜志生まれの尻谷さんは、代々続く農家の家系です。祖父の喜三郎さんは明治時代に河内一寸空豆(かわちいっすんそらまめ)の普及・改良に携わり、父親は大伴地区の人々とともに、なすび栽培の先駆けとなった人物だといいます。

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背景を調べると、「河内一寸空豆(かわちいっすんそらまめ)」は、なにわの伝統野菜26品目のひとつに数えられ、明治時代に発祥し、南河内地域で栽培されてきた記録が残っています。


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また富田林市公式noteによれば、農家の経済状況が厳しかった時代、高い収益が見込める作物として千両なすが注目され、喜志新家や宮地区で栽培が始まり、その後市内全域へと広がっていったそうです。

尻谷さん自身は、幼い頃から祭りと歴史に強い関心を持っていました。中学生の頃には富田林の商店街の隆盛について調査を行い、その研究が評価されて当時の文部大臣賞を受賞しています。

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高校は地元の河南高校へ進学しましたが、その頃、喜志では大きな出来事がありました。地車が18年ぶりに復活したのです。

当時、美具久留御魂神社へ宮入りする地車は2〜3台ほどしか残っていなかったそうですが、その頃を境に各町会で復活の機運が高まり、次々と地車が復活していきました。


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その後、JA大阪南に就職し、職場で現在の奥様と出会います。一方で、「少し道楽もした」と笑いながら振り返る尻谷さん。当時は競艇を楽しんでいた時期もあったそうですが、あくまで小遣いの範囲内での趣味だったそうです。

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17歳で出逢った「にわか台本」を上水分の人に認められるのに半世紀

歴史が好きで文部大臣賞を受賞するほどだった尻谷さんは、その後、ふたつの伝統芸能に挑戦します。ひとつは河内音頭、そしてもうひとつが河内にわかです。

あと1カ月もすれば各地で盆踊りが始まります。河内音頭や江州音頭の音頭取りは櫓の上で唄を披露し、南河内では各町会の盆踊りで毎週のように活躍しています。

一方の河内にわかは、演じる人も台本を書く人も限られる伝統芸能です。こちらに詳しく記載していますが、その源流は江戸時代の「大阪にわか」にあります。大阪にわかは全国へ広まりましたが、時代の流れとともに衰退していきました。

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しかし河内地域では独自に受け継がれ、現在まで残っています。その流れは、後の漫才や吉本新喜劇、松竹新喜劇などの大阪のお笑い文化にもつながったと考えられています。


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そんな河内にわかの世界に、尻谷さんは17歳で足を踏み入れました。

なお「にわか」は、「俄」「仁輪加」「仁和歌」「二和加」などの漢字が充てられることがありますが、尻谷さんはひらがなで「にわか」と書きます。理由は尻谷さんの師匠の考えを踏襲しているからです。

尻谷さん自身によれば、音頭で唄うことよりも台本を書くことの方が好きだったそうです。「にわかが基本で、音頭はその延長線上にあるんや」と語ります。

尻谷さんの氏地(氏神を同じくする地域)は下水分ですが、建水分神社のある千早赤阪村方面は上水分と呼ばれています。河内にわかの世界では、上水分は伝統を受け継ぐ中心的な存在でもあります。


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尻谷さんは長年にわたり、にわかの台本を書き続けてきました。しかし、上水分の台本作家たちから認められるまでには長い年月を要しました。

17歳で河内にわかを始めてから半世紀以上。ようやく認められるようになったのは69歳の時だったといいます。

その時に評価されたのが「男シリーズ」と呼ばれる作品群でした。上水分の先達からは「ようできとる。これからは男シリーズを書いていったらええわ」と助言を受けたそうです。

また尻谷さんは、時期こそ明確には語られませんでしたが、一時期、放浪の旅に出たこともあったそうです。その時に出会った仲間たちとは、今でも交流が続いているといいます。


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晩年のお父様からは、「遊ぶのはええけどな、要を大切にせえよ」と言われたそうです。

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全国を巡った末に、最終的には南河内へ戻ってきた尻谷さん。さまざまな土地を見て回ったからこそ、逆に河内にわかの魅力を再認識し、さらに好きになったと語ってくれました。

こうして全国を巡った経験と半世紀にわたる研鑽が、現在の尻谷さんの活動の原点になっています。

岸和田の町衆に教えられた「自分の祭りが日本一」

歴史と祭りをこよなく愛する尻谷さん。地車祭りと聞けば、多くの人が岸和田を思い浮かべるでしょう。尻谷さん自身も、豪快な「やりまわし」で知られる岸和田だんじり祭こそ、日本一の祭りだと信じて疑わなかったそうです。


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ところが、祭りで盛り上がる岸和田の町衆から意外な言葉をかけられました。
「祭りというもんは、自分たちの氏地の神様の祭りが日本一でなかったらあかんのや」

その言葉に尻谷さんは「はっ」とさせられたといいます。

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「自分らの町の地車にも、岸和田にはない良さがあるはずや」そう考えるようになり、その答えとしてたどり着いたのが河内にわかでした。


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岸和田型の地車は比較的小型で、勢いよく走らせることができます。一方、富田林市やその周辺地域に残る地車は「石川型」あるいは「にわか地車」と呼ばれる大型の地車です。

石川型の地車は走ることを主目的としておらず、曳行しながら曳歌を歌い、各所でにわかを演じることに特徴があります。

地車の前面には「にわか舞台」が設けられており、宮入りの際に神前で披露する「本にわか」、巡行中に観衆へ披露する「花にわか」、そして祭りの終了後に行われる「終いにわか」が演じられます。

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つまり石川型の地車は、単なる曳き物ではなく「動く舞台」として発展してきたのです。


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富田林市新堂を拠点とした新堂大工組が手掛けた大型地車について、尻谷さんは興味深い見解を語ってくれました。

「にわかがあったからこそ、それを演じるために地車も大きくなったんと違うかな」

地車が祭りを生んだのではなく、河内にわかという芸能文化が地車の形そのものを変えたのではないか――。尻谷さんはそんな視点で南河内の祭礼文化を見つめています。

喜楽座を立ち上げた理由

河内にわかは、本来であれば秋祭りの際に地車の上で演じられる伝統芸能です。しかし尻谷さんは、今回もすばるホールの大ホールを借りて河内にわかを披露します。

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その理由は、河内にわかを通じて地元の歴史や文化をより多くの人に知ってほしいという思いがあるからです。

また尻谷さんは、河内にわかの中で使われる河内弁が失われつつあることにも危機感を抱いています。


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ある時、若衆(青年団)の前で河内弁を使ったところ、「それ、どういう意味ですか」と聞き返されたことがあったそうです。

「こんな言葉も知らんのかと、本当に驚いたわ」

そう振り返る尻谷さん。若い世代になると、関西共通語は理解できても、地域独特の河内弁はほとんど使われなくなっているといいます。

さらに尻谷さんは、こんな思いも語ってくれました。


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「本来なら地元の人間が、よそから来た人を地域の色に染めていかなあかん。ところが今は逆に、地元の人間の方が外の文化に染まっているような気がするんや」

こうした危機感から、より多くの人に河内にわかを知ってもらう場が必要だと考え、すばるホールのような大きな舞台で公演を行う「下水分社にわか連喜楽座」を立ち上げ、自ら座長を務めるようになりました。

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今回で喜楽座公演は4回目を迎えます。

これまでには、大阪市住之江区北加賀屋の地名の由来となった喜志・大深出身の加賀屋甚兵衛、岩手県大槌町で取り組まれた「奇跡の復興米」、そして前回は楠木正成の子であり、南朝を支え続けた楠木正儀を題材として取り上げてきました。


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「地元の人が忘れた歴史を掘り起こせ!」地域の歴史や人々の歩みを、河内にわかという伝統芸能を通じて伝える――。それが尻谷さんの目指す喜楽座公演なのです。

天誅組(天忠組)を通じて地元の歴史を知ってほしい

楠木正成を知らない人はほとんどいないでしょう。しかし今回の公演で取り上げる天誅組の河内勢については、地元であっても知る人が少ないことに尻谷さんは驚いています。


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天誅組が峠を越えて進軍した先の奈良県五條市には資料館があり、その活動を紹介しています。一方で、決起の地の一つである富田林では、その存在を知らない人が少なくないといいます。

(昨年7月に行われた錦織神社境内にある天誅組慰霊碑の前で行われた慰霊祭)

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また、錦織神社には天誅組の記念碑があるにもかかわらず、多くの人がその由来を知らないことも気になっていたそうです。

そこで今回の喜楽座公演では、天忠組(天誅組)を題材として取り上げることになりました。


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なお、一般的には「天誅組」と表記されますが、南河内地域の有志の間では「彼らの行動は朝廷への忠義によるものだった」という考えから、今回のチラシでは「天忠組」と表記しています。

今回の公演では、地域の人々が演じる河内にわからしい見どころもあります。

(乾さんは鷹と一緒に登場)

中山忠光役を池上俊斗さん(孫)が、水郡善之祐役を乾康碩さん(祖父)が演じ、本物の祖父と孫による共演が実現します。

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また、錦織神社で行われている天誅組慰霊祭も今年で4年目を迎えます。3年前は少人数で始まった催しでしたが、年々参加者が増え、昨年は複数の和太鼓団体による演舞も行われるなど、大いに盛り上がりました。

ただし今年は猛暑を考慮し、例年の7月開催を見直す予定とのことです。


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「暑すぎるので、時期を変えようと思っているんや」

尻谷さんによれば、慰霊碑が建立された11月3日に合わせて開催する方向で検討しているそうです。詳細は今後決定されるとのことでした。

おわりに 太鼓には後継者ができた、では河内にわかは

尻谷さんは河内にわかだけでなく、和太鼓の普及活動にも力を注いでいます。

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喜和塾や和太鼓極をはじめとする団体は、地域のさまざまなイベントで演奏を披露し、迫力ある太鼓の響きで観客を魅了しています。

喜和塾は発足から26年を迎え、一期生が後継者として引き継いでくれることが決まったそうです。しかし、河内にわかについては事情が異なります。


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11月4日には河内にわか教室を開催する予定とのことですが、江戸時代の大阪にわかの流れを今に伝える貴重な伝統芸能だけに、新たな担い手が現れてほしいと感じました。

こうして尻谷さんへのインタビューは終了しました。

最後に、今回の「天忠組」公演に出演する祖父とお孫さんのおふたりにも加わっていただき、記念撮影に応じていただきました。

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(にわか公演用の舞台衣装)

部屋の中に作成途中の次回の衣装とミシンがあります。この衣装は、毎回、尻谷さんの奥様の手によって作られます。公演時のメイクも担当されていて、尻谷さんの活動を支えているのはまぎれもなく奥様なんだなとも改めて感じました。


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すばるホール(にわか連喜楽座明治維新のさきがけ、若き志士たちの天忠組)

住所:大阪府富田林市桜ケ丘町2-8
日時:2026年6月28日 開場15:00、開演15:30
料金:一般:1,000円(入場協力金)、高校生以下:無料(要整理券)
アクセス:近鉄川西駅から徒歩8分、小金台二丁目バス停から徒歩8分

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この記事を書いた人

奥河内から情報発信
大阪府河内長野市在住の地域ライター・文筆家。2021年に縁もゆかりもない河内長野に移住し「よそ者」の立場で地元の魅力・町が元気になるような唯一無二の文章執筆、情報を発信しています。

 

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