“探す”から“届く”へ 開かなくても、ちゃんと毎日届く安心感。気づけば届いている、あなた専用の情報便、the Letter
南河内ニュースを運営していくうえで、各方面からいろんな情報を集めているのですが、大阪狭山市は南河内の中でもこだわりの美味しい料理を出す個人店が多いのではないかとみています。しかし、それなりに予算が必要なお店が多いのも確かで、取材とはいえなかなか行けません。ちょうどさやりんポイントの有効期限が切れることを知ったタイミングで、思い切って奮発しようと実食したお店があります。
|
「PR」 |

それはジューダ・バレリーノ! (Giuda Ballerino!)さん。イタリア料理ではなくローマ料理を出すということでとても気になっていたので、思い切ってディナーに伺ったところ、びっくりするほど美味しくて驚きました。
|
|
|

(松井敬博さん)
ということで、改めて取材を申し込むことになり、オーナーシェフの松井敬博さんにお話を伺いました。インタビュー内容を紹介しながら、画像で当日食べた料理を掲載します。
料理人になったのは子どもの経験が大きかった

(木材団地)
松井シェフの生まれは、堺市美原の木材通り。ご両親はその町で材木業を営んでいました。高校卒業後の進路を決めるまで、料理人になることは考えていなかったという松井シェフ。いざとなった時の複数の選択肢の中に「料理人」というキーワードがあったのです。
|
「PR」 |

「まず一般的なのは家業を継ぐということになると思いますが、それは選択肢になかった」と松井シェフ。意外なことに、ご両親から家業を継ぐことに反対されたためといいます。
その背景には、材木業界は斜陽化していく可能性が高いという思惑がありました。ひとつは輸入自由化で安価な輸入材が増加してしまったので、国産材が売れなくなり価格が低迷したこと。また林業を営む人材の高齢化が進んで人手が不足すること。さらに、そして木造からコンクリートや鉄筋住宅が増えてきた日本の住宅事情の変化です。だから材木業以外の道を進むことになったのです。

ふたつめが「ファッションデザイン」の道でした。松井シェフは服や靴が好きだったので、美大に進んでデザイナーを志そうとしました。しかし、これに関しては、その業界にいる知人から「この世界は表は華やかでも裏は違う。簡単には食べていけない」と、業界入りに反対されたのでした。
|
|
|

こうして残った選択肢が料理人の道でした。幼い時の松井シェフは、当時の家業が羽振りが良かったということもあり、美味しいものを食べる機会に恵まれました。さらにお母さんの実家が福井県の旧家だった関係で、現地にある海山の良質な食材に触れる機会も多かったのです。
|
「PR」 |

また両親の家業が忙しいため、松井シェフが料理を代わりに作っていたりもしたのですが、両親はそれをとてもほめてくれたことも、料理人への気持ちが高まることに繋がります。
そういう風に小さな時から自ら料理し舌が肥える環境にいた松井シェフは、結果的に料理人になることに決め、辻調に入学します。家から辻調までは乗り換えなしで通えたことや、食べる仕事なら「将来、食いっぱぐれることはないだろう」という考えもありました。

辻調では本科に通った後、技術研究所(現在は調理技術マネジメント学科および高度調理 マネジメント学科)に行きます。これは大学院のようなものです。

専攻を選ぶ際に、和食や中華は選択肢になかったとのこと。その理由として「イタリアンやフレンチシェフならモテるだろう」という若者らしい動機がありました。
|
|
|
イタリアンになったのはシェフからの一言で

最終的にフレンチではなくイタリアンに決まったのは、友達がバイトを辞めることになったイタリアレストランで代わりにバイトをしたのがきっかけでした
|
「PR」 |

(スパークリングワインのサーバーも設置されていました)
そのバイトの合間、レストランのシェフに好きなパスタの種類を聞かれたのですが、松井シェフは即座に「シンプルなパスタが好き」と答えました。シェフはその回答から「イタリア料理人向きだ」とひとこと。

(デキャンタでいただいたスパークリングワイン)
そうして働きぶりを気に入ってもらえたからか、毎回の賄いを通常メニューから選ばせてもらえたという特別待遇にもなりました。最後は「店で社員として働くように」と勧められたほどだったのですが、結局そこには就職しませんでした。
|
|
|

当時はまだパスタのことを「スパゲッティ」、あるいは「マカロニ」という名前でひとくくりに呼んでいた時代。そのころの町場のレストランといえば、ホテルと比べて格下という評価が強かったこともあります。

そのまま卒業近くになった時に、先生から堺東にあった第一ホテルの二次募集の話があり、そこに応募します。採用は多くの志願者がいる中の5名だけだったので、松井シェフは落ちるのではと思っていました。
|
「PR」 |

(パンの上に載っているのはトウモロコシの粗挽き粉を水やだし汁で煮た北イタリアの伝統的な主食ポレンタ。この柔らかさとパンの硬さの相性が絶妙)
むしろ落ちて欲しいという考えすらありました。なぜならば採用試験に落ちたらイタリアに行こうと思っていたからです。

(赤海老ということで凝縮されたエビの旨味に固いバンとソースの酸味が調和がとれていました)
しかし運命はそうなりませんでした。合格者5名の中に松井シェフが入っていたのです。松井シェフのお母さんはとても喜びました。それほどまでに当時のホテルシェフのステータスが高かったからでした。
|
|
|
イタリアに行くまで「おやっさん」との師弟関係

(パテはしっかりとした肉厚たっぷり、マスタードが程よく効いていました)
松井シェフが第一ホテルに就職したのが20歳の時でした。そこから6年間日本国内で働き、26歳にしてイタリアに行くことになります。
|
「PR」 |

(もちもち食感と青のりの風味がたまらないゼッポリーニ)
「昔のホテルには丁稚(でっち)制度があったんです。就職してもすぐやめる子が多いから、いちいち名前を覚えるのが面倒だと、最初の1年は『丁稚くん』と呼ばれていました」と苦笑する松井シェフ。逆に厨房を取り仕切るチーフのことを、日本料理同様『おやっさん』と呼んでいました。2年目にしてようやく「松井」と名前を呼ばれたときはとても嬉しかったそうです。

(いちごのあまおうと生ハムは、いちごの酸味にあとから生ハムの塩味が余韻として残り、バランスがとても良い一品)
その後、モントレ大阪のレストランがオープンすると、おやっさんがチーフとして入ることとなり、おやっさんの弟子である松井シェフもオープニングスタッフとして移籍します。
|
「PR」 |

(しっとりしたやや甘い食感に、プチトマトの酸味とのバランスが良かったケークサレ)
おやっさんと松井シェフの師弟関係がこうして続いていたのですが、松井シェフの心の中には「イタリアへの思い」が日増しに強くなっていました。ある日、松井シェフはおやっさんにイタリアに行く旨を伝えます。
|
|
|

(ゴルゴンゾーラと笑み百姓の瓢箪かぼちゃのスープ)
それに対し、おやっさんは「それやったら一通りホテルの仕事を覚えてから出たほうがえやろう」と言いました。その理由は、ホテルの仕事を経験していれば、イタリアから戻っても確実に仕事があるという「おやっさん」の弟子思いの考えがあったからでした。
こうして松井シェフはモントレで宴会やカフェ、結婚式場といったホテルの仕事を一通り経験していきます。当時はイタリアンとフレンチの厨房が一体だったため、忙しいほうがもう片方を手伝うことも多かったという松井シェフ。
|
「PR」 |

(口当たり優しく、すぐにパンプキンの風味、そして隠し味としてゴルゴンゾーラと思われる野生的な味わいが隠し味っぽく感じました)
そんなこともあり、フレンチとのシェフとも顔なじみになりました。ある日松井シェフはフレンチのシェフにイタリア行きを相談します。しかし、すぐには答えは返ってきませんでした。
「ネットの無い時代でイタリアの行き方や滞在方法については何もわからなかったから、少しでも知りたかった」という松井シェフ。仕事ぶりを見てくれていたのか、そのシェフが1年経ってようやく知人のイタリア人を紹介してくれたのです。
念願のイタリアへ、そこで店名が同じレストランのシェフとの出会い


(かつて運行していた河内長野から関西空港行きのバス)
こうして紹介してもらったイタリア人は、大阪福島とローマに語学学校を経営している人でした。ラッキーなことに、イタリアに長期滞在するために必要なビザを、ローマの語学学校に通うということとして発給してもらえることとなったのです。

(自家製フォカッチャは、誤ってこぼしたと思えるほどのオリーブオイルがしっかり入り、オリーブの爽やかさ度味に深みを感じました)
こうしてついにイタリアに渡航した松井シェフは「無給でもご飯が食べられたら」ということで、語学学校に通う傍ら、ローマにあるお店「モンテアルチ」に研修生(アシスタント)として入りました。

(パスタは太くて中に細い穴が開いているブカティーニ <Bucatini>。口に含んだ時に、その隙間からの空気が口の中に入り、今まで味わった事のない食感。さらにベーコンとの凝縮されたソースとチーズとの相性も素晴らしい)
|
|
|
当時イタリア語は挨拶くらいしかわからない松井シェフでしたが、料理は世界共通。使う材料や調味料などは同じだったので、言葉がわからなくても何が必要なのかがすぐにわかったそうです。
モンテアルチで5カ月お世話になった後、いったん日本に帰国した松井シェフ。2回目の渡航では、最初の渡航で知り合った日本人の知人宅で居候をしたのち、現地のアパルトメント(キッチンや家具が備わった滞在型宿泊施設)に移ることになりました。しかし家賃が高く、少しでも安いところをと探した結果、荷物置きだった部屋を借りることになりました。
|
「PR」 |

(氷見産の鰆ををムース状にして焼いたものに、卵のソースを敷いていました。)
荷物置きと言っても松井シェフ一人が生活するには十分の広さがあったとのこと。学校に通いながら働き先を探す松井シェフですが、なかなか見つかりませんでした。
ところがある日、住んでいるところの近くで営業しているお店から立ち込める匂いがとにかく美味しそうと直感しました。

(魚の旨みが凝縮された中にローマ伝統の酸味ある卵ソースが強力なインパクト。このギャップが満足感を増幅させました。笑ノ百姓の野菜を魚の形に切ってトッピングしてありました)
「これは食べに行かないと」と思った松井シェフは、まずお店に飛び込みで行き、客として実際に食しました。「これは美味しい!」松井シェフはすぐにこの店で働きたいと切実に思ったのです。
まずホールスタッフにここで働きたいと伝えます。スタッフは即座に厨房に行き「日本のコックが仕事を探しているらしい」と言いに行きますが、しばらくの時間が流れます。そしてシェフのアンドレア・フスコ(Andrea Fusco)氏がようやく松井シェフの前に来ると、開口一番「日本人が来た!」と喜んだのです。

アンドレアの話では、全世界からスタッフが働きに来るという有名店「ヴィッサーニ」のシェフから「日本人は能力がある」とあらかじめ聞いていたというのです。そして自分の店で働きたいという志願者に、その日本人が来たということがとても嬉しかったとのこと。
|
|
|
ちなみにその店の名が、ミシュランの星を獲得したこともあるジューダ・バレリーノで、まさに大阪狭山市のお店の名前のモチーフになった店です。

(別注のデザート:松井シェフによると、ローマでは午前中に糖分を取り午後は取らないとのこと)
「その店の名前を使っても問題なかったのか?」と気になったので聞いたところ、松井シェフは「アンドレアとは今でもよく連絡を取っているんですよ」と口元を緩めました。
|
「PR」 |
ちなみにアンドレア・フスコ(Andrea Fusco)氏は、現在、ローマのモンティ地区にあるRoma Luxus Hotel内にあるレストランNomina – Cucina Ludicaのシェフとして、遊び心のある現代的なローマ料理と、緻密に調理されたグリル料理を提供しているとのこと

(松井シェフによるとローマでは料理では野菜と果物で自然の甘みのみで済ませ、足りない分はデザートで甘みをとるとのこと)
ジューダ・バレリーノは、当時ローマの端にある知る人ぞ知るお店でした。アンドレアは「警察が来たらまずいから」と、法的にも問題なく採用できるように、松井シェフに書類をそろえるように指示を出します。
こうして松井シェフはローマ市内で取れる書類を無事にそろえ、学生ビザを持っているアルバイトとして正式に店のスタッフとなったのでした。
ローマで3年働き日本へ

(画像提供:ジューダ・バレリーノ!さん)
松井シェフは3年間の帰国間際まで、ローマのジューダ・バレリーノでビザを更新しながら働きました。正式な書類をそろえたうえでのアルバイトだったので、給料もしっかり出たそうで、最終的にセカンドシェフ(料理長の右腕、副料理長格)まで務めました。
そんな松井シェフが帰国することになった理由はいくつかあります。まずアパルトメントの所有者の都合で退去する必要がありました。さらに物価が高騰し、代わりの住処を探しますが、みつからなかったのです。

「男性は見つからないんですよ。アジア人のひとりとして見られているからかな」と松井シェフ。さらにそのタイミングで先輩から日本に戻って手伝ってほしいという連絡が入りました。
こうして日本帰国を決意した松井シェフ、29歳の頃の話です。帰国直後は大阪南船場のお店に手伝いに、その後当時阿倍野にあった「COMUSO(コムソ)」で9年間シェフを務めました。
大阪狭山で独立した理由は

松井シェフは2013年にいよいよ独立します。「当初は(大阪)市内を考えていたんですが地価が高騰して断念しました」ちょうどあべのハルカスビルが2014(平成26)3月7日にグランドオープンする直前だったことで、とてもレストランをするような家賃ではなかったのです。
|
「PR」 |
イタリアは半径100キロ以内で食材を集めることが多いことから、近隣のもので無理なくできるようなところを探すことになりました。大阪の郊外あたりでと候補が絞られる中でちょうどその時に辻調のイタリアの先生から物件を紹介してもらえたのです。

そこが大阪狭山市の今の場所でした。当時は大家さんと辻調の先生が共同で洋食とケーキ屋さんをしていたそうなのですが、閉店することになったので松井シェフのところに連絡が来たのです。

そして紹介だけではありません。次の3つの条件が見事に合致したので、この物件の取得に動いたのです。理想の物件が得られるタイミングはまさに偶然のご縁が一致した時とよく言いますが、松井シェフにとってちょうどその時だったのです。
- 実家が堺市美原区だったので土地勘があった
- 近隣で畑もできることがわかった
- 別の人も物件を見学に来ていたがその人は辞めて権利がきた
|
|
|
ローマ式を押し切ることで競合を避けた

(画像提供:ジューダ・バレリーノ!さん)
イタリアンのシェフとしては超一流と言える松井シェフでしたが、実際に独立して経営者として店を運用するのはただ料理を作るだけとは違います。イタリアンではなくローマ料理ということもあり、特に最初の頃は試行錯誤を繰り返したそうです。
|
「PR」 |

それでもカルボナーラやティラミスの知名度が高いことが幸いしたとのこと。そしてもうひとつ松井シェフがこだわったことは、日本向けにせずローマ式に押し切ったことです。

「(大阪)狭山は(大阪)市内で働いていたシェフが多く、ハイクオリティのお店が多い。だから中途半端なことをすると埋没する。だからローマにこだわった」と松井シェフ。
開業当初は、富田林市錦織にあった西田農園さんの畑を借りてヨーロッパの野菜を作ったそうです。当時は若いスタッフもいたので、ヨーロッパの野菜を見せてあげたいということもありました。
|
「PR」 |

その後、スタッフは巣立っていき、今は松井シェフひとりでお店を運営しています。そのため畑は返し、現在は同じ錦織北にある笑ノ百姓さんで野菜を手に入れているとのこと。その他には河内長野市の平尾商店、あすかてくるで、羽曳野市の産直市場よってってなどで仕入れを、イタリアでしか手に入らないものは輸入しているそうです。また、料理のアクセントとなるハーブは、土壌へのこだわりがあることから自宅で栽培しています。
本当はピザは職人が手掛けるものだけどローマピザを知って欲しかった

(画像提供:ジューダ・バレリーノ!さん)
「本来イタリア料理を調理するシェフはピッツァは作りません。ピッツァ職人が作るものだからです」と言う松井シェフ。実際に店にはピッツアがなかったので、開業当初お客さんに「なんでイタリア料理の店なのにピッツアがないんだ」と言われたそうです。とはいえ、現在店内にはピッツァ窯があります。これはどういうことでしょう?
|
「PR」 |

それは、ローマのピッツァを知って欲しいからだと言います。松井シェフによれば日本で流通しているピッツァはナポリのピッツァで「厚く・もちもち」としているのに対し、ローマのピッツァは「薄く・クリスピー(サクサク)」と、似て非なるものとのこと。
ところが、松井シェフが調べた話として関西でローマのピッツァを出している店は皆無で、東京でも1店しか見つけられないと言います。

「これではピッツァはナポリのものだけとなってしまう。ローマ料理を出すものとしては絶対に阻止せねば」との思いから自らピッツァ窯を作りローマのピッツァを提供し、ピッツァにも種類があること、ローマピッツァを多くの人に知って欲しいと言います。
「本当は薪窯を設置したかったが重たすぎて床が抜けると言われたので」とガス窯にしたという松井シェフ。こうしてみんなが知っているナポリとは違うローマのピッツァが楽しめるようになりました。
|
「PR」 |

(画像提供:ジューダ・バレリーノ!さん)
また料理については「シンプルなものこそ記憶に残る」との考えを持っています。
シンプルさをベースにローマの珍しい料理、ローカル料理、つまり地元の人の味を伝えたいという松井シェフ。「3年間働いたアンドレアが積極的にやっているヌォーバ・クッチーナ(Nuova Cucina:新しいイタリア料理)とは違う路線なので、申し訳ないけどね」と、締めくくられました。

ちなみに現在は、昼も夜も完全予約制とのこと。
|
|
|

ということで松井シェフにお話を伺いました。ちなみにイタリア語でGiuda Ballerino!はイタリア語の俗語で、「なんてこった!」「驚いた!」という意味です。

松井シェフは3年間働いたアンドレア・フスコシェフの店から名づけたわけですが、「Giuda Ballerino!(なんてこった!)」の後に、「こんな旨いものを出すとは!」と、思わずお客さんが唸ることを店名で表現したのかなと。あまりにも料理がすべて美味しかったのでそう感じたのでした。
|
「PR」 |

ジューダ・バレリーノ! (Giuda Ballerino!)
住所:大阪府大阪狭山市金剛2丁目13-23
TEL:072-365-8566
営業時間:12:00~15:00、18:00~22:00
※昼夜とも完全予約制です
定休日:月曜日
アクセス:南海大阪狭山市駅から徒歩3分
instagram
|
|
|
この記事を書いた人
奥河内から情報発信
大阪府河内長野市在住の地域ライター・文筆家。2021年に縁もゆかりもない河内長野に移住し「よそ者」の立場で地元の魅力・町が元気になるような唯一無二の文章執筆、情報を発信しています。
登録いただいた方には、少し踏み込んだ情報もお届けします。 通常の記事に加えて、登録者限定の裏話も配信! ここだけの話も、そっとお届けします。

![[商品価格に関しましては、リンクが作成された時点と現時点で情報が変更されている場合がございます。] [商品価格に関しましては、リンクが作成された時点と現時点で情報が変更されている場合がございます。]](https://hbb.afl.rakuten.co.jp/hgb/50a89ae1.c557cedb.50a89ae2.b870c018/?me_id=1265563&item_id=10111024&pc=https%3A%2F%2Fimage.rakuten.co.jp%2Fpiena-ac%2Fcabinet%2Fkoso2024-02%2Fpt-3791011-13_18.jpg%3F_ex%3D240x240&s=240x240&t=picttext)
![[商品価格に関しましては、リンクが作成された時点と現時点で情報が変更されている場合がございます。] [商品価格に関しましては、リンクが作成された時点と現時点で情報が変更されている場合がございます。]](https://hbb.afl.rakuten.co.jp/hgb/50a89ae1.c557cedb.50a89ae2.b870c018/?me_id=1265563&item_id=10131333&pc=https%3A%2F%2Fimage.rakuten.co.jp%2Fpiena-ac%2Fcabinet%2Fkoso2024-04%2Fss-e-cf-188_3.jpg%3F_ex%3D240x240&s=240x240&t=picttext)


コメント