【南河内郡太子町】聖徳太子御廟「叡福寺」のすぐ近くなので一緒に訪れたい、太子の父・用明天皇陵

大阪狭山と南河内郡の歴史

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例えば、自治体で新しく市が誕生した場合、先に同じ名前があると、頭に旧国名や都道府県名をつけて区別しますね。例えば長野県に長野市があるから河内長野市になったり、埼玉県に狭山市があるから大阪狭山市になるパターンです。さて、太子町の場合は現時点では市ではなく「南河内郡」なので同じ名前の太子町が兵庫県にあったとしても、太子町のままです。

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そして太子町の太子とは聖徳太子ゆかりの場所ということ。叡福寺に聖徳太子廟があります。


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そして太子町がすごいと思ったのは、聖徳太子だけでなく、太子ゆかりの人物の史跡がいくつも残っていることです。例えば太子の父である31代用明天皇の陵墓(河内磯長陵)も太子町にあります。


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バスが走るメインの道路沿いに石碑を見つけたので、当初古墳が花壇のようになっているのかと勘違いしましたが、もちろん違います。

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ということで、用明天皇陵のある先の道を歩いてみましょう。

緩やかな坂を歩いていくと、歩道の先に階段が見えます。


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階段の先に天皇陵への入口があります。

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画像の緑の森のようになっているのが用明天皇陵(河内磯長原陵:こうちのしながのはらのみささぎ(外部リンク)です。別名春日向山古墳(かすがむかいやまこふん)で、考古学的には埋葬者不明としながらも、宮内庁が日本書紀などの記述から用明天皇陵と治定(ちじょう/じじょう:埋葬者を決定)しています。

真っ直ぐ行くと入口があります。陵墓の周囲には幅7メートルの空濠を巡らせており、この濠の外堤までを含めた規模は、一辺100メートルもあるそうです。

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ここが入口です。「宮内庁」の文字が見えますね。


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用明天皇陵と刻まれた石碑があります。

石碑は1925(大正14)年10月に建てられています。今から100年前ですね。

入口の建物をみると

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宮内庁の施設で、古市陵墓監区磯長部事務所です。


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車にも宮内庁と書いてありました。

そのまま拝所の方に向かってみましょう。

拝所が見えてきました。

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「日本書紀」の記載によれば、崩御した当初(587年)は、現在の奈良県桜井市池之内と伝わる磐余の池上の陵に葬られました。

癸丑、天皇崩于大殿。秋七月甲戌朔甲午、葬于磐余池上陵。

日本書紀:橘豐日天皇 用明天皇

現代語訳:九日、天皇は大殿で崩御された。秋七月二十一日、磐余池上陵(いわれのいけのえのみささぎ)に葬り祀った。

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その後593(推古元)年にこの地である「河内の磯長の陵」に改めて葬られたとのこと。


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秋九月、改葬橘豐日天皇於河內磯長陵。    

日本書紀:推古天皇 豊御食炊屋姫天皇

現代語訳:九月、用明天皇を河内磯長陵・(かわち又はこうちのしながのみささぎ)に改め葬った。

用明天皇陵の大きさは東西65メートル、南北60メートルあります。高さ10メートルの三段階構成の方墳です。


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用明天皇は欽明天皇の子で、蘇我馬子の父、稲目の孫です。兄の敏達天皇の後に即位します。大陸から入ってきた仏教を大切にした崇仏派で、仏法を重んじ仏教を公認したとのこと。

用明天皇の在位はわすが2年間ですが、天皇の功績が妹の推古天皇や聖徳太子以降に起こった仏教隆盛に繋がりました。

聖徳太子廟から徒歩圏内にあるので、せっかくですから太子をこの世に誕生させるきっかけとなった父君の墓にも参拝してみてはいかがでしょうか。


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用明天皇陵(河内磯長原陵)

住所:大阪府南河内郡太子町春日
アクセス:近鉄喜志駅からコミュバス 用明天皇陵前バス停下車5分

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この記事を書いた人

奥河内から情報発信
大阪府河内長野市在住の地域ライター・文筆家。2021年に縁もゆかりもない河内長野に移住し「よそ者」の立場で地元の魅力・町が元気になるような唯一無二の文章執筆、情報を発信しています。

 

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