【南河内郡太子町】二上山雄岳山頂より一段低いところに鎮座。奈良県との境周辺に大津皇子の墓があります

大阪狭山と南河内郡の歴史

ふたつの山が並んでいる二上山、厳密に地図を見ると二上山の雌岳は太子町寄りなのに対して、雄岳の場合は奈良県寄りになっています。ただ金剛山もそうですが、実際に利用する場合は、あまり市や県の境界線を意識することはありません。

その証拠として太子町が雌岳とは別に雄岳とその周辺の地図(外部リンク)を発行・紹介しています。

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ということで、今回も奈良県との境界線にあるスポットを取り上げてみましょう。その場所は、二上山雄岳山頂から少しだけ標高の低い場所にある大津皇子(おおつのみこ:663年ー686年)の墓です。標高は約500メートル位のところにあります。


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そばと行っても1丁ほどの場所なので約100メートルほどの距離があります。そして標高も二上山雄岳より少し下がったところにあります。

標高の高い天皇陵や皇族の墓を調べると、京都府京都市西京区大原野にある、標高642メートルの小塩山(おしおやま)大原野西嶺上陵(淳和天皇陵)や奈良県吉野郡吉野町にある後醍醐天皇陵(標高380メートル程度)などが出てきます。大津皇子は天皇ではありませんが、皇族の墓としては標高の高い場所にあることは確かなようです。

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大津皇子は、天武天皇の第3皇子として生まれました。683年頃から政治に参加したとのことですが、686年の天武天皇崩御の直後に謀反の罪で捕らえられてしまいます。そして天武天皇の皇后(後の持統天皇)から死を命じられてしまいます。


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日本書紀の天武天皇(下)には次のように記されています。

戊申、始發哭、則起殯宮於南庭。辛酉、殯于南庭、卽發哀。當是時、大津皇子、謀反於皇太子。
(二十四日、南庭で殯をし、発哀した。このとき、大津皇子が皇太子に謀反を企てた。)

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皇太子というのは、腹違いの兄の草壁皇子で天武天皇の皇后の息子です。ところが草壁皇子も即位することなく689年4月に病気により薨去(死去)したため、草壁皇子の母である皇后が即位して持統天皇になります。


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大津皇子が自害した場所は、現在の奈良県橿原市東池尻町付近にある訳語田(おさだ)の自邸とされます。藤原の宮跡の東側、JR香久山駅の南側で、奈良盆地の南東に位置するので、二上山からは離れています。しかし、なぜ二上山の雄岳山頂付近に墓があるのでしょうか?

諸説あるようで、ひとつには古代の人々は二上山の二峰を男女の二神に見立てて、「二神山(ふたかみやま)」と呼んでいたこと。また奈良盆地から見て西側にあるため、仏の来迎(らいごう)思想によるものなどがあり、そういう場所だから葬られたとされます。

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ただし、実際の大津皇子墓は謀反を起こした犯罪者だから二上山の山頂に葬られず、葛城市染野にある鳥谷口古墳だという説もあるようです。しかし、大津皇子の死後に皇太子の草壁皇子が病死をしたことで、大津皇子の祟りと恐れ、埋葬しなおしたという説もあります。いずれにしても宮内庁では二上山にある古墳を大津皇子の墓(円墳)としています。画像のように宮内庁の看板があり管理をしています。


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また万葉集にも登場し、大津の皇子の姉の大伯皇女(おおくのひめみこ)が大津皇子をしのんで、二上山をわが弟と詠んだ歌も万葉集に収められています。弟の思いやった歌が全部で6首残っている(外部リンク)とのこと。ひとつを引用します。

うつそみの 人なるわれや 明日よりは 二上山を 弟世とわが見む
(うつそみの ひとなるわれや あすよりは ふたかみやまを いろせとわがみむ)

解説によれば、「この世の人である私は、明日からは二上山をわが弟と見ようか」という意味が込められているそうです。

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ということで、大津皇子の墓を紹介しました。二上山山頂ではなく少し低いところに墓があるのは、かつて二上山が二神山と呼んで神聖化していたので、少し遠慮した場所に埋葬されたのかもしれません。


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大津皇子の墓

住所:大阪府南河内郡太子町山田境(葛城市境)付近
アクセス:二上山万葉の森登山口から徒歩1時間弱程度

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この記事を書いた人

奥河内から情報発信
大阪府河内長野市在住の地域ライター・文筆家。2021年に縁もゆかりもない河内長野に移住し「よそ者」の立場で地元の魅力・町が元気になるような唯一無二の文章執筆、情報を発信しています。

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