【富田林市】河内音頭の元祖・岩井梅吉碑が新家交差点の近くに!創作の元となった河内十人斬り事件とは?

富田林のおでかけ・散歩記事

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公共交通派の私は、ご存じの通り暇さえあれば町歩きをしています。そうすると、思わぬ発見があるからなのですが、今回も偶然に見つけたスポットが新家交差点近くにある岩井梅吉碑です。

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調べてみると盆踊りの定番歌、あの河内音頭の元祖とのこと。さらに創作のもとになった河内十人斬り事件という話が出てきました。非常に気になりましたので、いろいろ調べてみました。


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新家交差点は、大阪外環状線と国道309号線が交わう交通量の多いところですが、一歩路地の中に入れば、東高野街道をはじめとする昔ながらの街並みが残っています。

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そうして新家交差点近くを歩いていると、このように気になるものを発見しました。これが今回紹介する岩井梅吉碑です。

この場所には新家町水利会館や集会所、新家児童公園などがあるので、地元の人が何かあれば集まる場所ですね。

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水利会館のある建物からまっすぐ行けば、岩井梅吉碑と複数のお堂が並んでいます。


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さて新家町の集会所のところに岩井梅吉碑があるのはわかりましたが、そもそも河内音頭の祖とはどういうことでしょうか?

実は、一口に「河内音頭」と言っても、地域によって大きく「北河内」「中河内」「南河内」の3つの系統に分かれているのをご存じでしょうか。

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  • 北河内: 源流とされる「交野節(かたのぶし)」が伝わる
  • 中河内: 現代の主流である、賑やかな河内音頭(八尾市などが中心)
  • 南河内: 岩井梅吉が大成した「切り音頭・改良節」の系統

碑文の横にある説明板や各種資料を調べてみると、まさにここ富田林(南河内)にある石碑の主・岩井梅吉こそが、南河内系統のルーツを築いた人物なのだそうです。


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(河内長野市・くろまろの郷盆踊り大会で音頭を披露する岩井会)

現代の河内音頭は八尾市など中河内で発展したスタイルが広く知られています。しかし富田林市や河内長野市などの南河内には、岩井梅吉の芸系を受け継ぐ伝統が今も息づいています。

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写真の岩井会の皆さんが櫓の上で響かせる音頭は、新家の地で活躍した岩井梅吉から現在へと受け継がれてきた、生きた文化遺産そのものなのです。


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(赤阪村水分(現:千早赤阪村水分)にある建水分神社)

さて河内音頭がひとつの形になったきっかけは、1893(明治26)年5月25日に当時の赤阪村字水分で起こった殺人事件「河内十人斬り(かわちじゅうにんぎり)」です。これは赤阪村の村民で博打打ちの城戸熊太郎とその舎弟の谷弥五郎が起こした事件。

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熊太郎の内縁の妻おぬいが、松永寅次郎と密通していたことが発端となります。熊太郎は激怒し別れ話しますが、ここでおぬいの母おとらが、「仕送りの約束を果たしていないから金を払ってから別れろ」と言います。

急遽金が必要となった熊太郎は、村の顔役で寅次郎の兄、松永傳次郎に、昔金を貸したことを思い出します。熊太郎は傳次郎に金を返せと言いに行きますが、「金のことは知らぬ」と言われた上、さらに傳次郎から半殺しの目に遭います。

(画像右側が金剛山)

それを恨んだ熊太郎が、傳次郎ら関係者を殺害しようと、舎弟(弟分)の弥五郎とともに行動に起こしたのがこの殺人事件でです。

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傳次郎をはじめ、その家族や元々の発端となった内縁の妻おぬいやその母おとらなど、関係者を片っ端から殺害します。生まれたばかりの子供にも手をかけました。その結果11人もの人を殺害し、そのあとふたりは金剛山に逃亡します。

浮気相手の松永寅次郎だけは赤阪村にいなかったために助かったそうです。


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(富田林警察署は画像の建物から見て、左側、富田林市役所の隣にあります)

翌26日に富田林警察署に通報が入ると、大阪府警本部と協力して熊太郎らの行方を捜しますが、なかなか捕まえられません。事件から2週間後、金剛山中で自殺したふたりを発見し、この事件は解決しました。

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この凶悪事件は「河内十人斬り」として、連続殺人事件はもちろん、女や金、さらにやくざの博打打ちの仁義といった要素が絡んだこともあり、新聞で大々的に紹介されました。さらに小説や芝居のモデルともなったそうです。


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事件当時、岩井(現在の新家)に住んでいた内田梅吉は、警察署長の人力車夫でした。署長を人力車に乗せ度々現場を訪れることとなったので、自然と事件の全容を知ります。

また梅吉は車夫の傍ら、地元では有名な音頭取りでもありました。この当時は梅吉を含め字の読めない人が多かった時代。事件の内容を新聞の読めない人にも伝えようと、音頭取り仲間に話して台本を書いてもらいます。

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梅吉は「江州音頭」を改良し、河内音頭の平節に歌詞を付け、梅吉節を創作しました。

「男持つなら熊太郎弥五郎、十人殺して名を残す」

というセリフが入った梅吉節の興業、記憶に新しい話題の事件だったこともあり、道頓堀の芝居小屋で行われた公演は大ヒットします。その結果、梅吉節が大衆に広まり、今に続いているのです。


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ちなみ梅吉の本名は内田ですが、梅吉節を作ったときに地域の小字(こあざ)・岩井を名乗り、岩井梅吉と名乗りました。

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つまり岩井梅吉が河内音頭の元祖となっているのは、今に伝わる節回し「梅吉節」が人気となったことで、それが河内音頭の代表的な節回しとして広まったからなんですね。


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(令和元年に設置された石碑)

その後の流れですが、岩井梅吉の名前は、河内音頭の音頭取りとして代々名前が継承されるようになります。三代目岩井梅吉こと松原村新堂の出身の伊藤富松をたたえる岩井富松碑(外部リンク)」が松原市内にあるそうです。

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ちなみに現在の岩井梅吉さんは八代目(外部リンク)で、主に河内長野で活躍されているとのことです。


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ということで、新家地域を歩きながら偶然見つけた岩井梅吉碑。

河内音頭のことはもちろん知っていましたが、現在の音頭の形のきっかけを作った人が、富田林新家出身という事実と、元となる明治時代の殺人事件のことを初めて知りました。

町の中には歩いてみないとまだまだ知らない情報という宝物がたくさん埋まっていることに改めて気づきました。

河内音頭元祖・岩井梅吉碑

住所:大阪府富田林市新家2丁目4
アクセス:近鉄川西駅から徒歩6分

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この記事を書いた人

奥河内から情報発信
大阪府河内長野市在住の地域ライター・文筆家。2021年に縁もゆかりもない河内長野に移住し「よそ者」の立場で地元の魅力・町が元気になるような唯一無二の文章執筆、情報を発信しています。

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