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本日は「海の日」の祝日。そして同時に、7月20日は「天忠組(天誅組)」河内勢の命日でもあります。
激動の幕末、天忠組河内勢のリーダー・水郡善之祐(にごりぜんのすけ)ら生き残った面々は、挙兵の失敗後に自首。京都の獄舎に捕らわれの身となり、翌年の元治元年7月20日(1864年8月21日)に処刑の時を迎えました。
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その魂を慰めるため、数年前から富田林の錦織神社境内の前にある慰霊碑の前で、毎年7月20日に慰霊祭が行われており、今年も今日の10時から開催されます。

天誅組(天忠組)の変についておさらいすると文久3年(1863)、尊王攘夷派の公家・中山忠光を擁した天誅組は、孝明天皇の大和行幸を機に倒幕への挙兵を計画しました。吉村寅太郎ら約40人は大和国五條の代官所を襲撃し、天皇親政の実現を掲げました。
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しかし政変により行幸が中止されると朝敵となり、幕府軍や諸藩の追討を受けました。十津川郷士らの支援を得て数百人規模に膨れ上がり転戦したものの敗走し、主要隊士は戦死・処刑されました。天誅組の変は幕末最初の本格的な武装倒幕運動とされています。

(右が草村さん)
この特別な今日という日に、天忠組の歴史に関して、どうしてもご紹介したい人がいます。天忠組研究の第一人者であり、藤井寺市にある日本唯一の天忠組専門私設記念館「天誅(忠)組記念館」の館長を務める、草村克彦さんです。
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草村さんの主な著書は以下のものがあります。
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- 『天忠傑作』(2010年)※華野 晩伯(はなの ばんぱく)名義
- 『ぶらり天誅組』(2010年)
- 『天忠組の跫音(あしおと)』
- 『藤本鉄石と天誅組』

旧知の間柄でしたが、「一度じっくりとお話を伺ってみたい」という思いから、私は7月20日を迎える直前、天誅(忠)組記念館へと足を運びました。
今回は、熱気あふれる記念館の様子と、草村さんへのインタビューの内容をたっぷりとお届けします。
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なお、一般的には「天誅組」と表記されますが、草村さんは「本来は天忠組である」という揺るぎない信念を持たれています。本記事では草村さんのその熱い想いに敬意を表し、以下「天忠組」の表記で統一します。
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なぜ、天忠組に

熊本で生まれた草村さんが富田林に移り住んだのは、6歳のとき。炭鉱の閉山を機に、お父様が新たな仕事を求めて、家族で大阪へとやってきました。
成人後は住友電工に就職し、35年にわたり勤務。定年を前に早期退職制度を利用して会社を去ったことが、その後の「天忠組記念館」設立の呼び水となります。
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それにしても、ひとりの会社員だった草村さんが、なぜ天忠組の研究家となり、私設の記念館まで作ることになったのでしょうか。
きっかけは、会社員時代の転勤生活でした。持ち前の知的好奇心から歴史、特に幕末の動乱期に興味を持つようになります。
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はじめは新選組や坂本龍馬といった誰もが知るヒーローを追いかけていましたが、ある時、ふと疑問が浮かびます。「新選組も龍馬も、自分の故郷にはゆかりがないじゃないか」と。
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「足元にある郷土の歴史をやるべきだ」という強い思いに突き動かされ、大阪ゆかりの歴史を調べる中で行き着いたのが、幼少期を過ごした富田林に深く関わる「天忠組」の存在でした。


(トイレの中も天忠組)
その後、転勤で赴いた東海村での静かな環境が、草村さんの読書量を爆発的に増やします。

さらにタイミングを同じくして、同僚から「同人誌に何か寄稿してくれないか」と頼まれたことで、富田林、羽曳野、藤井寺周辺を結ぶ郷土史として天忠組の執筆をスタート。こうして草村さんは、天忠組が持つ底知れない魅力の沼へと、深く嵌っていくことになったのです。
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尊敬する著者の夢を自ら叶えた

郷土の歴史を調べたり、小説を書いたりする人は世の中にたくさんいます。しかし、草村さんの情熱はそれだけにとどまらず、私設の「記念館」を作るという壮大なアクションへと向かいました。
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そこまで彼を突き動かしたものは何だったのか。それは、一人の郷土史家、故樋口三郎氏の遺した熱い想いでした。元公務員の樋口氏が執筆した『実記天誅組始』は、当時すでに絶版となっていましたが、草村さんはこの本を後世に残すべく、自ら復刊に向けて動き出します。
「もっと多くの人に読んでほしい」との想いから、樋口氏の娘さんの協力のもと、元々は5,000円だった価格を2,000円へと改定。手に取りやすい形で世に送り出しました。
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そして、この復刊本の帯に書かれた著者紹介の最後に、運命の一行がありました。
「『天誅組記念館』これが私の夢である」
これを見た草村さんは、「だったら、私がその夢を叶えてみせる」と誓います。そして草村さんは本当に行動を起こしました。父親の夢が現実となった瞬間に、娘さんが大喜びしたことは言うまでもありません。
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思い返せば40代の頃からずっと、胸の中で温め続けていた記念館の構想。2010年に早期退職で会社を去ると、翌2011年には早くもそれを形にしてみせました。
開館から15周年を迎えた今もなお、草村さんの天忠組への情熱が衰えることはありません。
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天忠組は河内を除いて全国からの集まり、早すぎたわけではない


草村さんによると、天忠組の大きな特徴の一つは「全国各地から隊士が集まっている点」だといいます。
天忠組というと、京都の公家である中山忠光や、土佐藩の吉村寅太郎、那須信吾らの印象が強く、あとは大和や河内の勢力くらいしか思い浮かばないかもしれません。しかし実際には、全国津々浦々から志士が集結していました。
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その中でも、水郡(にごり)率いる河内勢だけは、血縁関係者が多かったのが特徴だそうです。
また、参加者の身分や職業も脱藩武士にとどまらず、郷士(ごうし:十津川郷士、土佐郷士)、さらには豪農・庄屋、医師、学者・国学者、神官、僧侶、農民出身者に至るまで、極めて多様な人々が理想を掲げて集まっていたことがわかります。

「天忠組は五条代官所での鮮やかな制圧以外は、どちらかと言えば負け戦が多かったので『烏合の衆』と思われているがそうではなく、知識人たちである。知識があったから立ち上がったんだ」と草村さんは力強く言います
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歴史を語る際、多くの人は「明治維新の5年前に動いた天忠組は早すぎた」という論調を展開します。しかし、草村さんはこの見方を明確に否定します。
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「もし天忠組の決起がなかったら、本当に明治維新が訪れていたかどうかはわからない。天忠組が初めて幕府に対して反旗を翻したからこそ、それを見た次の世代が動いたと捉えるのが自然ではないか」
草村さんの言葉には強い説得力があり、「確かにその通りだ」と深く頷かされます。
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天忠組が地域に広がりつつあるきっかけになった友との出会い

日本で唯一、天忠組の歴史だけを専門に扱う私設記念館には、全国から熱心なファンが詰めかけます。
館内に足を踏み入れると、まず目を引くのが隊士たちの御霊を祀る「草莽堂(そうもうどう)」。不思議なご縁に恵まれ、本物の宮司さんから寄贈されたという宮大工による見事な神棚や、直筆の書が神聖な空気を醸し出しています。
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周囲を見渡せば、草村さんが30年もの歳月を費やして集め狂ったコレクション約5,000点が所狭しと並び、圧倒されます。
以前は自宅に保管していたそうですが、「さすがに誰彼構わず自宅へお通しするわけにはいかない」と、現在の場所を借りることに。駅前の一等地も検討したものの、「親の介護もあったからね」と笑う草村さん。
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家族を大切にしながら、この地で天忠組の灯を守り続けているのです。
地道な講演活動や調査を続ける中で、草村さんには多くの神社仏閣とのネットワークが生まれました。前述の草莽堂もそうですが、とりわけ大きな出会いとなったのが、千早赤阪村・建水分(たけみくまり)神社の岡山宮司との絆でした。

(いちばん右側が岡山宮司)
そしてある日、この岡山宮司の仲介によって、運命の出会いが訪れます。やってきたのは、「河内にわか」の活動で知られる尻谷廣海(しりたにひろうみ)さん。
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「天忠組を調べたい」という尻谷さんに、岡山宮司が「それなら藤井寺の草村さんのところへ行きなさい」と太鼓判を押したのです。
郷土の歴史を追う二人が共鳴するのに、時間はかかりませんでした。

意気投合した二人の情熱は、錦織神社での毎年の慰霊祭として結実し、さらには複合文化施設「すばるホール」での天忠組をテーマにした河内にわか公演へと発展していきます。
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「地道かもしれないけれど、こうした活動こそが地域に歴史を知ってもらう架け橋になる」草村さんはそう力を込めます。
というのも、歴史を大きく変えたはずの天忠組ですが、皮肉なことに地元での認知度は決して高くありません。
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天誅(忠)組記念館は伴林光平先生顕彰館も兼ねています。
藤井寺市には伴林氏(ともばやしのうじ)神社があります。そこには天忠組の主要隊士であり高名な国学者・歌人でもあった伴林光平(ともばやしみつひら)との関係があると言います。
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天忠組に参加する前、光平自身が生家近くにあった伴林氏神社を古代の豪族大伴氏の祖神を祀る社として広く世に認識させました。
また国学者として荒廃していた大和・河内の天皇陵(山陵)の調査に生涯を捧げた人物で、数多くの実地調査を行い、『大和御陵墓検考』や『巡陵記事』などの著作を残して、陵墓の復興に尽力した人物です。
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今や神社を訪れても彼らの歴史をまともに語れる人はいないといいます。
「記念館から神社へ流れた観光客が、がっかりして帰ってしまうのは本当に勿体ない」。草村さんはそう肩を落とします。藤井寺には古墳しかないと思われるのも残念と言います。

実際、藤井寺市の「アイセル シュラ ホール」の歴史展示を覗いても、天忠組の文字は見当たりません。古墳と近鉄関係(バッファローズや昔の河陽鉄道時代などの展示)、それが、地域における認識のリアルな裏付けでもありました。
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だからこそ、尻谷さんが「富田林から天忠組の魅力を発信し、多くの人に知ってもらいたい」と伴走してくれることが、草村さんにとっては心から嬉しかったのでしょう。
最後に語られた、同じ志を持つ「友」への溢れんばかりの感謝の言葉が、深く胸に残りました。
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正直赤字だけど続けていく、そしていつか後継者を

「天誅(忠)組記念館には、大きなタニマチ(有力な支援者)がいるのだろう」と、勘違いされることも多いと草村さんは言います。しかし実際にはそのような後ろ盾はなく、私費を投じながら、志ある方々からの寄付によってギリギリのところで運営を維持しているのが現状です。

早期退職時の退職金で住宅ローンを完済できたものの、運営費のやりくりは常に厳しく、周囲からは副業のように見られることも少なくありません。また、著名な研究者や大学教授と比べると、どうしても講演料などの面で差が出てしまうという現実もあります。
それでも15年間続けてこられたのは、全国から天忠組のファンや「もっと深く学びたい」という熱意を持った人々が集まってくれるからです。
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さらに、富田林に住む草村さんのお姉様が最大の理解者として支え続けてくれたことも、大きな原動力になったといいます。
また、記念館には「友の会」があり、毎月メンバーが集まって茶話会を開催しています。アットホームな雰囲気のなかで歴史や天忠組についてあれこれと議論を交わすこの場所は、会員たちにとって月に一度の大きな楽しみになっています。
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館内では来館者数をカウントしており、100番目や200番目といった節目(キリ番)の方にはささやかなプレゼントも用意しているとのこと。現在の来館者数は、間もなく3,000人に達するそうです。

そんな草村さんも、そろそろ後継者が現れてくれたらと願っています。天忠組の隊士たちの子孫は今も富田林を中心に健在です。鳴川さん(鳴川清三郎の子孫)の所有の古民家を開放して講座を行う場合があります。
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また道明寺駅近くにある食堂佐市の和田さんも和田佐市の家族の子孫の方ですね。

それでも、かつては新選組などのメジャーな幕末の歴史の陰に埋没しがちだった天忠組が、ネット時代の到来によって変わりつつあります。ニッチな情報が飛び交う現代だからこそ、その存在がクローズアップされやすくなったと草村さんは感じています。
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「今後、大河ドラマなどで幕末期が描かれる機会も増えるでしょうから、メインではなくても少しでも天忠組が登場してくれたら、という期待もあります。そうやって、少しずつ歴史に埋もれていた存在を、一人でも多くの人に知ってもらえるきっかけになれば嬉しいですね」と、草村さんは笑顔で締めくくられました。
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南河内地域には、天忠組に限らず、多くの歴史が今なお埋もれたままになっています。しかし、草村さんのような情熱を持った方が一人いるだけで、眠っていた歴史が掘り起こされ、そこから新たな後継者が生まれるかもしれない。そんな未来への期待を胸に、私は記念館を後にしました。

なお、天誅(忠)組記念館は館長が不在の場合や臨時休館となる日もあるため、訪問の際は事前連絡(予約)が必須です。足を運ぶ際は、事前に草村さん(090-5010-3995)まで連絡してから伺いましょう。
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天誅(忠)組記念館
住所:大阪府藤井寺市小山5丁目8−33 テックハイム小山
アクセス:近鉄藤井寺駅から徒歩16分
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この記事を書いた人
奥河内から情報発信
大阪府河内長野市在住の地域ライター・文筆家。2021年に縁もゆかりもない河内長野に移住し「よそ者」の立場で地元の魅力・町が元気になるような唯一無二の文章執筆、情報を発信しています。
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