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こちらに1枚の写真があります。これは30年ほど前に河内長野国際交流協会(KIFA)設立のパーティということで、この中に写っている女性のひとり、茶色の襟の女性がKIFA現会長の柴理梨亜(しば りりあ)さんです。
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アルゼンチン生まれの柴会長がなぜ日本、そして河内長野と接点を持ち、さらにKIFAとの接点が生まれたのでしょうか?今回は柴会長(以下、柴さん)に独占インタビューをさせていただきました。ちなみに画像は柴さんからの提供で、紙の写真を撮影したものです。
日本人の血統が続く三世

(画像提供:柴さん いちばん右)
1955年生まれの柴さんは、アルゼンチン生まれの日系三世です。父母が2世、祖父母が日本人なので血統的には日本人と同じです。先祖をたどれば、父方が鹿児島県で母方が和歌山県とのこと。また柴さんの話では、父方の祖父母は半ば逃避に近い形で、戦前にアルゼンチンに渡航したそうです。
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そんな柴さんが生まれ育ったのはアルゼンチンの首都ブエノスアイレスの郊外で、育った当時は何もないところだったそうです。多くの2世は現地の言葉(スペイン語)しか話さない中、柴さんの家では日本語での会話が行われていました。
背景には柴さんから見たら祖母にあたる人が「アルゼンチンにいようとも、私たちはあくまで日本人だから日本語をしゃべらないとだめだ」という考えを持っている方だったので、日本語の教育を家の中で行っていたのです。
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さらに柴さんのお母さんはアルゼンチン生まれですが、戦時中は神戸に住んでいたこともあった(戦後アルゼンチンに戻った)ので、他の2世以上に日本に対する愛着があったとも。ちなみに柴さんのお父さんは読み書きは無理ですが、会話はできたそうです。
初めての日本は1970年の万博、2回目は日本への留学

(画像提供:柴さん)
柴さんの先祖の祖国である日本に初めて来たのは高校生の頃です。ちょうど1970年の万博が開催していたときで、母方の祖父母から「日本を見ておいた方が良い」ということで15歳の時に来日しました。
滞在は1週間だけでしたが、アルゼンチンと町や車の作りの違いに驚き、来日中は日本人が作る日本料理(味噌、豆腐)を食べて感動したそうです。もちろん当時は日本に永住するとは考えてもいませんでした。
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2回目に柴さんが日本に来たのは、当時の文部省の制度で神戸商科大学(現:兵庫県立大学)への留学でした。柴さんはアルゼンチンの大学で会計学を学んでいたのですが、2年間という約束で日本に来ました。当時は数人の留学生枠しかなかったのですが、柴さんは運よくその中に入れたのです。
留学中は神戸・垂水に住んでいました。海に近いため、寿司を食べる機会が多かったそうです。1回目の観光とは違い、日本の印象が全く異なりました。
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柴さんの2年間の留学生活の中で最も驚いたことは「道路を横断するときに車が止まって待ってくれること」だと言います。アルゼンチンではありえないそうです。その他には喫茶店のコーヒー代が高いということでした。
また日本の大学生の「幼稚さ」にも驚いたと言います。アルゼンチンでは大学生はおろか高校生の段階で、政治のことや国際関係を真剣に議論するのに、日本ではそれは皆無で、ピンクレディが流行っていた時代だったのでそれを真似する学生がいたことにそう感じたとのこと。
アルゼンチンの日系企業就職から3度目の来日へ

(画像提供:柴さん)
無事に2年間の留学を終えた柴さんはいったんアルゼンチンに戻ります。すでに現地での就職先が決まっていたからです。柴さんはアルゼンチンに進出していた日系の会計事務所に就職し、取引先の日本企業を担当する仕事を行いました。
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しかし、この企業には2年ほどしか在籍しませんでした。その背景には日本留学中に運命の人と出会ってしまったからです。
その人が大学院で修士課程を得るまでは、遠距離恋愛を続けていたという柴さん。今のようにネットもなく、国際電話も高い時代、手紙のみのやり取りで片道2週間かかっていました。今では考えられませんが、当時はそれでも愛を深められていたのです。
そして彼が無事に修士課程修了して大学講師への就職が決まったタイミングで、柴さんは3度目の日本へ。結婚することになりました。
日本人と結ばれて日本に渡航することになったことで、ご両親の反応を伺うと、父は寂しさを感じていた一方、母はもともと日本びいきなのでとても喜んでいたそうです。現在柴さんのお母さんは日本に住んでいますが、逆に今はアルゼンチンが恋しいと言っているそうです。
柴さんは結婚して日本に来た直後、知人に誘われ当時のプライスウォーターハウス系列の「青山監査法人」に就職。しかし子どもが生まれると退職します。
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理由は「会計の仕事はほかの人でも変わりがいるが、子どもの母親は変わりがいない」ということでした。以降は子育てに専念します。
子育てのエピソードとして「昔は子どももスペイン語が出来た」と言います。家で子どもとスペイン語で会話をしていました。
しかし、子どもが幼稚園に通うようになると自然と日本語が身についていきました。そして後述する美加の台で家を購入して移り住むようになると、義父と同居することになったことも影響しました。
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河内長野に住んだきっかけは?

今までのお話だと柴さんは神戸のほうが近い感じですが、やがて河内長野に住むだけでなく、関連団体(KIFA)の会長にまでなります。では、どういう経緯があったのでしょうか?
元々、堺市の公団住宅に住んでいた柴さん夫婦ですが、分譲住宅のチラシを見たことがきっかけで河内長野に関心を持ちます。そのチラシは美加の台での分譲ということでしたので、試しに河内長野に遊びに行き、そのついでに物件を見ることになったのです。
いくつかのハウスメーカーがある中、ある会社の間取りを見学したところ、担当者から「先着順です」と言われます。さらに、まだ建物が未完成だった物件だったので、途中から注文が出来た(オーダーメイド)というのも魅力的でした。
良い条件だったので迷っていると、「大学にお勤めならローンを組めますよ」と言われたので、その場で申し込んだそうです。
ただこの時、柴さんはある覚悟をしました。「しばらくアルゼンチンには戻れない」ということです。ローンの支払いもさることながら、子どもたちも小さかったことも関係していました。
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柴さんは、購入した家のある美加の台に住むようになり、それが落ち着いたころから、桃山学院大学に非常勤講師として講義を始めました。トータルで10年ほど行ったとのことですが、この時にいろんな国の人と知り合いになったそうです。
そういった経験が後のKIFA設立時のメンバーとなり、現会長につながった可能性が高いことは間違いないと考えられます。
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婦人会の会合から市職員との接点。そしてKIFAの設立メンバーへ

柴さんのご主人が大学勤務で、ご自身も大学の非常勤講師というアカデミックな背景があったとはいえ、河内長野市との深い関係、KIFAのような団体の会長職に就くのは一般的とは言い難い、とても稀有な展開といえるでしょう。ではなぜそうなったのでしょうか?
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きっかけは桃山学院大学の非常勤講師だったからです。大学の人の中に地域の婦人会の人がいたのでその会合にも顔を出していました。その時に市役所の職員から「アルゼンチンの話をしてほしい」という要望があったのです。
ちょうど関西国際空港が開港しようという機運が高まっていたときで、河内長野市としても国際的な取り組みが必要というのがありました。アルゼンチンとなれば、当然柴さんが適任ということで、千代田公民館でアルゼンチン料理の紹介をしながらアルゼンチンについて話しをします。
それがきっかけで、河内長野市役所との接点ができた柴さんは、次に国際化フォーラムのパネリストにも参加しました。
さらにこの頃になると、KIFAを立ち上げようという機運が高まります。「柴さんにも立ち上げに参加してほしい」と声がかかり発起人会にも参加、創立メンバーとなりました。

(KIFA設立時 画像提供:柴さん)
「これは場違いでは!」と柴さんは当時を懐かしみます。当時の発起人・設立メンバーと言えば、清教学園の校長、河内長野ガスのトップ、河内長野市商工会会長という早々たるメンバーが名を連ねていたからです。
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しかし今になって思ったことは「外国で生まれ育った人が、組織に必要と感じていたのかも知れないと思われていたから、声がかかったのかな」と感じているそうです。
こうして1992(平成4)年にKIFAが設立されました。設立当初は市役所職員がメンバーに多かったそうで、市役所内にKIFAの事務所があったそうです。
こうして柴さんはKIFAとの深いつながりが生まれるのですが、会議の時にはまだ小さかった子どもを連れていったこともあったそうです。
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やがて理事となった柴さんは、各部会でボランティアの育成などにも携わります。そしてKIFAの活動を通じて急に地域の人との交流が広がったと言い、30年近くかかわりながら「苦労よりも楽しかった」という思い出のほうがはるかに多いそうです。
メキシコ人の団体を迎えた

(関西空港)
KIFAの活動が始まった2年後の1994年に関西空港が開港しましたが、これを記念して、大阪府と各自治体が実施した『一市町村一国運動』にともなう海外使節団の招聘・巡回事業(イベント名:世界に出会う大阪の街・ワールドフェスタ)が行われました。
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この時、メキシコの団体を河内長野に迎え入れることになりました。ここでも柴さんの存在が威力を発揮します。それは「スペイン語を話せる人」が必要だったからです。
昔の植民地の名残りということもあり、中南米では多くの国がスペイン語を公用語もしくは事実上の公用語として扱っています。アルゼンチンもメキシコもこの中に含まれていたので、柴さんが通訳者となってメキシコの団体を受け入れることができました。
これを皮切りにいろんな国の団体を受け入れることになります。

(2023年のフィリピンの団体のウエルカムパーティの準備)
当初は、メンバーとホストファミリー1人だけ参加という条件でしたが、ウエルカムパーティも行われました。柴さんによればここにも面白いエピソードがあります。
「当初は業者に頼んで豪華な料理を出したけれど、魚の刺身などが多く、外国人の中には食べられない人が多かった」と言います。さらに食べられない人用の代わりの料理を用意していなかったので、その人は食べられずに終わってしまったのです。
「このままではまずい」と感じた柴さんは、ちょうどKIFAメンバーの中に調理師さんがいたので、その人に頼みます。以降は、河内長野に来る国の人たちに合わせた料理を研究して提供するようにしたそうです。
ところが、予算の関係上、大阪府の取り組みは90年代の終わりごろに無くなってしまいました。
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しかし、KIFAのある河内長野市は独自で2000年以降も続けています。当時流行だった「IT講習会で使う予算の一部」を回すこともあったそうです。基本は毎年ひとつの国を決めて活動を行っており、それは現在に至るまで続いています。
KIFA5代目会長として

KIFAは山本定男初代会長からスタートして東武元河内長野市長が2代目会長と、過去4代の会長が組織を率いていましたが、2021年に柴さんが5代目会長になりました。
4代目の会長(山本明彦さん)からは「柴さん、早く交代してくれないか」と、少し前から頼まれたとのこと。
こうして2021年から新会長となった柴さんはもう5年会長職をしています。会長としてのコメントを頂きました。
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1、多くの人に海外の事を知って欲しい
2、海外の国の文化を理解してほしい
3、海外に行かなくても海外から人が来ることを知って欲しい
3については、普段の生活をしている人が、外国人に対して日本の風習などを中々教えてあげることはありません。しかし、教えてあげることで日本人も学ぶことができると言います。
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お互いを知ることでより平和になるのではないか、日本人が無知のため海外の旅行先でやらかしてしまうような事件があるけれど、その対策にもなると言います。

(ハンガリーの領事館長<いちばん右>の隣が柴さん)
そして柴さんは、若い人にもっと参加してほしいと言います。その背景にラテンの国アルゼンチンと日本との相違で、日本の自殺率の高さを指摘します。
アルゼンチンはキリスト教カトリックの国のため自殺そのものが悪という考えがあるとはいえ、日本の子供の自殺率の高さに驚くと言います。
「ぎりぎりまで我慢しているからかな」と柴さん。アルゼンチンでは勉強は友達で教え合う考えがあるのに対して、日本は競争社会の側面もあるのかなと、だからもっといろんな国を知ってもらうきっかけにKIFAの活動を活用してほしいと言います。
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KIFAで活躍している元気な高齢者が多いのは、「知的好奇心が豊富な人が多いからかな」と柴会長は分析していました。
今後のイベントについて6月28日に、無料のアルゼンチン舞踊公演

最後に柴さんに今後の予定について伺いました。6月はアルゼンチンに関するイベントが続いており、最も大きいのが6月28日17時にアルゼンチン民族舞踊公演が無料でキックスのイベントホールで行われます。
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また2日後の6月30日にダンスワークショップ(有料)が行われます。それに先立ちグローバルカフェ~アルゼンチン編~が6月12日(金)・13日(土)11時から15時までキックスの1階で行われます。メニューはパステル・デ・パパス(南米版シェパーズパイ)、アロス・コン・レチェ(お米のスィーツ)、ファホール(クッキーやチョコレートのスィーツ)、マテ茶 などです。
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ちなみに7月9日はアルゼンチンの独立記念日です。毎年神戸ではフィエスタ・アルヘンティーナというイベントが行われ、今年は7月19日に行われるそうです。
「昨年アルゼンチンに住んでいた私の姉が亡くなって、直後に現地の友達が世話してくれたんです」と柴さん。そういうことで、柴さんは昨年、久しぶりにアルゼンチンに帰ったそうです。ちなみに地球の反対側にあるアルゼンチンまで、飛行機で1日半かかります。
ということで、KIFA会長の柴さんにお話を伺いました。KIFAには「本当に気軽に参加してほしい」とのこと。それから「国際交流の原点は平和のお願いであり、自分の意見も開いての意見も認め合える関係が大事だ」と締めくくられました。まずはグローバルカフェで、アルゼンチンの家庭料理を!
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この記事を書いた人
奥河内から情報発信
大阪府河内長野市在住の地域ライター・文筆家。2021年に縁もゆかりもない河内長野に移住し「よそ者」の立場で地元の魅力・町が元気になるような唯一無二の文章執筆、情報を発信しています。
登録いただいた方には、少し踏み込んだ情報もお届けします。 通常の記事に加えて、登録者限定の裏話も配信! ここだけの話も、そっとお届けします。



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