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※アーカイブ記事なので情報は掲載当時(2025年4月21日)のものです
昨年の8月から河内長野市長になった西野修平市長が、自治体の常識を覆したといえる「営業部」を創設すると市長選立候補の時点で発表し、メディアの大きな話題となりましたね。そして私もその「営業部」を統括する「営業部長」を公募するという記事を昨年書きました。
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それから書類審査、複数回の面接を経て、ついに営業部長が選出され4月1日から市役所の勤務を開始しています。これを踏まえて私はインタビューを打診したところ、寺島大智(てらしまたいち)営業部長が快く応じてくださいました。
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1、オーストラリアで美味しいビールに出逢い、ビールメーカーへ就職

寺島部長(以下、寺島さん)は、1990(平成2)年12月生まれの34歳。とても年齢が若い営業部長です。管理職である課長の上司でもある30代での部長就任は、ベンチャー企業のような例外を除き、非常に珍しいですし、インパクトもあります。さらにすごいのは、寺島さんは河内長野はおろか大阪や関西地域とはかけ離れた埼玉県東松山市出身で、河内長野には1度も足を踏み入れたことがなかったということ。
まず、寺島さんの高校時代のお話から伺いました。出身校は男子校の「松高」こと埼玉県立松山高校。硬式野球部に入部したのですが、100人もの部員がいる野球部で、2年まではレギュラーになることはできずベンチのボール拾いばかりで、寺島さんはとても悔しい思いをしていたとのこと。そこでとにかく頑張って練習し、3年生になって見事にレギュラーを獲得。学生時代からとてもハングリー精神のある方だったんですね。
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大学は青山学院大学に進学しました。とても都会的でおしゃれな印象が強い大学ですが、寺島さんの話では理工学部でキャンパスも相模原なので、実際はそのようなイメージとは違うとのこと。そこで寺島さんは相模原キャンパスの近くで4年間下宿。大学の専攻は主に化学関係で、基礎研究に関する学びを続けたそうです。
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そんな寺島さんは大学を5年で卒業しました。これだけ聞けばまるで成績不振で1年留年したような印象になりますがそうではなく、1年間休学してオーストラリアのシドニーに語学留学したのです。2012年のことでした。本来の目的は英語の取得でしたが、シドニーで寺島さんの運命を変える経験がありました。

それはクラフトビールです。今でこそ、河内長野でもくろまろの郷が出しているA-YANビールや天見の南天苑が企画した楠木正成エール、また隣の富田林では万里春ビールが醸造されていますので、ずいぶん馴染みのある存在になりました。とはいえ寺島さんが大学生のころは、地ビールからの流れでのクラフトビールは存在しつつも、まだそこまでメジャーな存在ではありませんでした。
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寺島さんはシドニーのカフェでクラフトビールを飲みながら、「こんな豊かな飲み物なら良い時間が過ごせる」ことに感動しました。それまでのビールと言えば大学のコンパなどで行われているような「一気飲み」文化の印象が強く、結局は酔うだけのもの。決して快く思っていなかったのです。
ところがシドニーでクラフトビールとの出会ったことで、「ビール」という飲み物の概念が大きく覆ったのです。こうして寺島さんは語学留学を終え、2013年に帰国後いよいよ就職活動を行う際に、志望会社としてキリンビールを選びました。
2、出向先のヤッホーブルーイングで味わった失敗と管理者としての学び

キリンビールはご存じのように、日本のビール4大メーカーのひとつです。かつて寺島さんが快く思っていなかった「一気飲み」に向いているビールを主力で醸造しているのは確かですが、キリンビールはクラフトビールに関しても強い関心がありました。その証拠に大阪・道頓堀にあったキリン会館をリニューアルし、2000年から2007年までKPOブルワリーを操業していました。

(道頓堀)
寺島さんはエール(主に英国で作られているビールのスタイルで、クラフトビールメーカーが醸造しているビール)をやりたい、シドニーの味を多くの日本人に広めたいとの思いでキリンビールを応募しました。
「他社も受けたんですが」と前置きしながら、「人生のストーリーを語れるのがキリンのクラフトビールなんだ」ということが、応募への大きな動機付けとなりました。こうして2014年にキリンビールに入社した寺島さんは、マーケティングの道に進みました。
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寺島さんはキリンビールに10年間所属していましたが、そのうちの3年間はクラフトビールのヤッホーブルーイングに出向していたとのこと。ヤッホーブルーイングは「よなよなエール」を出しており、日本のクラフトビール業界でも大きくて、中規模クラスの醸造量を誇る醸造所です。
ちょうどキリンとヤッホーブルーイングとの間に人材交流があり、「クラフトビール」の醸造所への出向となったのです。寺島さんはそこでネット通販の分野に力を入れました。これは「身近な人に気の利いたもの(リッチなクラフトビール)」というコンセプトで、ビールファンとのつながりを重視した内容でした。
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そんな中、寺島さんは忘れることのできない失敗を経験することになります。それは「父の日ギフト」を企画したときです。
プロジェクトのリーダーは寺島さんだったのですが、大手ビールメーカーから出向した若いリーダーということで、周りから「すごく仕事が出来る人」という印象を持たれていました。その結果、寺島さんの提案に対してだれも反論せず、まわりが「イエスマン」となってしまったのです。
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そのことが、判断を大きく見誤る結果となります。売り上げは決して良くなかったのですが、耳障りの悪い情報が入ってこなかったのです。裸の王様のようになってしまった寺島さんはそのことに気づかず、「みんなでポディティブに頑張ろう」と言いながらさらに大きな勝負に出ました。それはテレビ出演です。
「テレビの拡散力を使えばいける」と寺島さんは盲信します。周りは内心「それは無謀すぎる」とハラハラしていたのかもしれませんが、それを止める人は誰もいなかったのです。ところが、テレビに出ても売り上げが伸びることなく、結果的に大量の在庫を抱えてしまったのです。
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「一度工場に来てくれないか」
ベテランのスタッフから一本の電話が寺島さんのもとに入ります。見に行くと、悲しそうな表情をしたスタッフが、ギフト用に作った包装をすべて剥がしていました。寺島さんはこの光景を見たときに「お客さんだけではなく、ギフトセットを作るために奔走したスタッフの思いも台無しにした」と深くうなだれました。

(市役所の前に新しく設置されたレンタルサイクル)
それでも素晴らしいのはただ反省しただけでなく、次につながる学びに結び付たことです。「失敗は成功の母」と言うとおり、寺島さんは今回の失敗の原因を探り、リーダーとしての心構えに問題があったことに気づきます。「『ダメなものはダメ』と、周りにも言ってもらえるようなリーダーにならなければならない。それこそが責任と覚悟を持つ本来のリーダー」と、寺島さんは視線を遠くに向けながら語りました。
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ヤッホーブルーイング出向の後、本社に戻った寺島さんは、家庭用の生ビールサーバーという新規事業の担当となります。テスト展開をしたものの、サーバーの作りが複雑すぎて肝心のビールが上手に出ないことに気づきました。従来ならそこでプロジェクトは中止となるのですが、家庭用生ビールサーバー実現はキリンにとっての悲願だったこと、かつ消費者側も求めていることで、「止めないで」というお客さんからの声もありました。そういったことを知っていた寺島さんは奔走します。こうしてサーバーの改良版を新たに作り始めることが決まり、キリン ホームタップ(外部リンク)実現につながっていきました。
3、オンライン面接の段階で初めての河内長野入り

クラフトビールを広めたいとキリンビールで働いていた寺島さん。ずっと関東で生活しており、河内長野市営業部長の公募を見たときには、都会的で個性的な住民の多い荻窪で生活していました。それなのになぜ関西の「知る人ぞ知る」河内長野への営業部長公募にエントリーすることになったのでしょうか?
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「直接のきっかけは、公募サイトで営業部長の記事を見たからです」という寺島さんですが、その背景には私生活で大きな変化があったことでした。この時にはすでに結婚をしていたのですが、「子どもができたことで、それまでの考え方に大きな変化と迷いが生じました」と言います。

今までは「ビールで人を幸せにしたい」という思いで10年間働いてきた寺島さんは、自らの子どもが誕生するタイミングで大きく迷いました。まずお酒で人を幸せにできるのには限りがあります。未成年は絶対にダメですが、大人になっても酒を飲まない人は一定数います。だから幸せにできる人には限りがあると寺島さんは思ったのです。
さらにビール業界の将来性について、2・30年先のビール業界に大きな不安がありました。すでに4大メーカーを中心に顧客の奪い合いが始まっています。少子高齢化、人口減少傾向の日本において、市場が広がる可能性は低く、限られた市場の奪い合いになると判断したのです。
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(ラブリーホールに集まっていた子どもたち)
「このままでよいのか」と、次の人生を模索していた寺島さんが何気なくネットを見ていた時に「河内長野市営業部長公募」の言葉にくぎ付けになりました。そこに書いてあった「未来の子どもたちに故郷を残す仕事を」という内容がとても気になったのです。もちろん寺島さんは河内長野のことなど、それまで全く知らなかったのです。ただ河内長野が言われている「消滅可能性自治体」は、故郷がなくなる可能性を示していました。子どもが生まれ育った故郷が無くなるのは、とても悲しいことです。
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その可能性がある自治体で、そうならないようにするための戦力を民間から募集しているということを知った寺島さんは、「子どもたちを幸せにできる仕事かもしれない」と強く感じました。
そもそも大阪の北側にあると思っていたほど河内長野のことを知らなかった寺島さん。同時に別の民間企業への応募も考えていたころだったので、奥様に相談したところ、奥様は民間企業に対してはまったくつまらなそうにしていたのに、河内長野に対しては最初からにこにこと楽しそうに話していたとか。最初からとても好印象だったのです。これが後押しとなり、営業部長に応募することにしました。
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「え?和歌山に近いんだ」寺島さんが河内長野の場所を確認して最初に感じたことでした。469人もの応募者が集まった中で選ばれるというのはなかなか厳しいもの。もし営業部長に本当になったら家族の生活はどうなるのかと言ったことは、「本当に受かってから考えれば良い」と、むしろ気軽に応募できたと言います。
書類選考が通り、次はオンラインの面接です。これは河内長野での面接ではありません。だから寺島さんも関東で面接を受けたのだろうと思ったのですが、ここで寺島さんは意外なことを言いました。「河内長野にある、おばな旅館で受けました」と言うのです。

つまり、最終選考でもないのにいきなり河内長野に来た寺島さん。理由は河内長野がどんなところか知りたかったからとのこと。そこで私は、最初に見た河内長野の印象について質問をしました。河内長野駅前に着いたときはシャッター街で、高齢者が多く、さびれた印象を受けたそうです。

しかし、レンタカーを借りて河内長野をくまなく回っているうち、特に滝畑ダムやくろまろの郷、てんとう虫パークといった駅から少し離れた場所に行くと、その印象が大きく変わったそうです。自然豊かな場所であるのに思ったより人が多く、若い人も結構いるという印象。普段から子供と楽しめる場所もたくさんあるし、大阪ミナミの繁華街、難波から30分なので休日に都会で遊べるということを知った寺島さん。この時「絶対に受かりたい」という気持ちが芽生えました。
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そして寺島さんは何ができるかを自分なりに考えました。キリンビールでのノウハウを駆使し、民間のマーケティング力を生かせて、公募にもあった「稼ぐ力、まちの価値を高める」ことが出来ると確信。むしろ「縁もゆかりもない場所」だから思い切ったことができるのではと考えました。オンライン面接を河内長野市内で受けたことに市役所の面接官も驚いたとのことですが、「まちに行かないとわからない」という寺島さんの本気度が伝わり、最終面接につながっていったのです。
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4、「移住者」の代表として河内長野市をアピール

寺島さんはいよいよ最終面接となりました。最後は西野市長との面接です。ここで私は市長の印象を伺うと、会う前は「タレントっぽい人かな」と思ったそうです。それは河内長野市内にいる人はみんな知っていることですが、西野市長のポスターは他の政治家の追随を許さないほど、市内全域に多く掲示しているからです。

こうして市長による最終面接を受けました。寺島さんはキリンビールで上記にも触れた失敗のことも話したのですが、ここで「逆質問タイム」がありました。これは応募者が西野市長に質問する時間です。そこで寺島さんは西野市長に「なぜこんなこと(営業部長公募)をしたのか」と聞いたそうです。
それに対して西野市長は「使命のためにやっている」と答えたとのこと。寺島さんはこの時「この方(市長)と一緒に仕事をやりたい」と直感で思ったそうです。そしてついに合格し、晴れて営業部長となったのでした。

(西野市長)
実は寺島さんのインタビューの前に一緒に市長室に行き、西野市長からもお話を伺いました。市長は書類選考も含め応募した人全員をチェックして選んだそうです。その中でマーケティングやプロモーションに精通した人を選んでいき、最終的には10名弱にまで絞り、7人の最終面接を市長が担当しました。
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寺島さんを選んだ理由のひとつに、前に書いた失敗談を正直に話してくれたことがあります。そして決め手となったのは、キリンビールという誰もが知っている大手企業のマーケティングポジションにいた将来有望と思える人が、河内長野に運命を感じて応募してくれたことだといいます。「その覚悟にグッとくるものがあった」と西野市長は寺島さんを選んだ理由を語りました。
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関東で生まれ育ち働いていた寺島さんがついに河内長野に引っ越す事になりました。
奥様は「本当に受かるとは思っていなかった」と言いつつも、これも運命ということで「大智、行ってこい!」と言われたそうです。
「おそらく、陰で応援してくれていたんだと思います」と寺島さん。「信念を持っている人」という奥様の後押しがあり、寺島さんは縁もゆかりもない河内長野に移住し、「移住者」の代表として河内長野市をアピールすることになったのです。
現在、寺島さんは千代田で単身赴任しているそうです。ちなみに寺島さんの奥様は8月に第2子の出産の関係で今は実家にいて、予定では11月頃に引っ越してくるとのこと。
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5、営業部長としてこれからの抱負と支えるひとたち

最後に、寺島さんの営業部長としての抱負について伺いました。「まず富田林と大阪狭山市に住んでいる移住者の方10名ほどにインタビューをしました」とのこと。主に40歳代の子育て世代を対象にして行われましたが、結果は「地元愛が強い人が多かった」と言います。
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(大阪狭山市)
寺島さんも荻窪という都会に住んでいたわけですが、都会の人は仕事中心にストイックに生きる人が多い中、郊外ともいえるこれらの地域は「程よい田舎、オアシス」という印象。このことは、これから営業部長として企画していく上で大阪市内の都会に疲れている人にとっては魅力的に映るのではないかと語ります。
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(富田林市)
その一方で、その人たちには「河内長野」は選択肢に入っていないことが多かったとのこと。どうやらこれらの2自治体よりさらに都会を離れた南にあるために、位置的に興味が無かったのではという印象があったそうです。寺島さんは自身の経験もあり「まず河内長野を知っていただけるきっかけを作るプロモーションを高めていきたい」と語りました。
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「知っていただき、来ていただき、そして住んでいただく」と寺島さん。「戦略的にどう進めるかをこれから皆さんと考えたい」とのこと。そのためには、若者が普段から遊べるようなところなども考えていく必要があるのではと、お願いしておきました。

(荒井参事は長年、富田林市嬉在住)
実は、営業部長を支えるひとりが同じ日に採用されていました。それは営業部シティプロモーション課の荒井祥男参事(以下、荒井さん)です。荒井さんも営業部長の公募に応募しましたが、有望な経歴があるということで参事として4月から河内長野市に入りました。
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ちなみに荒井さんは広告代理店の博報堂(電通の同業者)出身で、営業局長を6年、子会社のメディアパートナーズのプロデュース局長を2年経験していたそうです。荒井さんの代表作を伺いました。なんと「六甲のおいしい水」を発売当初から手がけていたそうで、水を買うという習慣のなかった日本人に、今では無くてはならないものとなるように育て上げたというのです!
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すでに定年を過ぎた年齢ながら、もう1度チャレンジしたいと河内長野の営業部長に興味を持ったとのこと。結果は当初とは違う形になりましたが、参事として河内長野のプロモーションのために営業部長を支える人材のひとりとして活躍します。そしてふたりの間に入る形で、シティプロモーション課の藤井亮子課長も含め、部署一丸となって「まちを盛り上げていこう」と考えているそうです。
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「河内長野は外からの人にやさしい文化がある」と最後に寺島さんが言いました。これは同じ移住者の私も同感で、「日本一よそ者にやさしいまち」ではないかとすら思うほどです。インタビューをさせていただきながら、営業部長の寺島さんを核に、サポートする荒井さん、上には市長と局長、そして下にはシティプロモーション課などの部署の方々が一丸になりながら河内長野を売り込みたいという強い思いが伝わりました。
住んでいるものにとって、明るい未来を感じつつ夕方の市役所を後にしました。

河内長野市役所
住所:大阪府河内長野市原町1丁目1-1
アクセス:南海・近鉄河内長野駅からバス 河内長野市役所前下車すぐ
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この記事を書いた人
奥河内から情報発信
大阪府河内長野市在住の地域ライター・文筆家。2021年に縁もゆかりもない河内長野に移住し「よそ者」の立場で地元の魅力・町が元気になるような唯一無二の文章執筆、情報を発信しています。
登録いただいた方には、少し踏み込んだ情報もお届けします。 通常の記事に加えて、登録者限定の裏話も配信! ここだけの話も、そっとお届けします。



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