【藤井寺市】手作り市や古道具市が行われる辛國神社の由来や祭神、春日大社との接点。さらにすぐ近くにある葛井寺との関係は?

南河内北部の歴史
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藤井寺といえば世界遺産の古墳と自治体の名前の由来となった葛井寺が有名ですが、もうひとつ忘れていけないのが、辛國神社です。入口の鳥居からの境内が長いこともあり、縁日などのイベントにも使われています。

次の9月13日日曜日にも「からくに手作り市Withアイセルシュラホール」が行われます。

ここで改めて辛國神社のことがとても気になりました。神社の由来や祭神、そしてすぐそばにある葛井寺との関係です。



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特に最後の葛井寺との接点について、これまで南河内地域を歩いていると、江戸時代以前は神仏習合ということもあり、神社の中に寺が普通にあり、またその逆もありました。

神社と寺院は切っても切り離せない中、葛井寺のすぐそばに神社があるため、両者の関係性がとても気になったからです。

藤井寺駅南口から藤井寺一番街(葛井寺観音参詣道)のアーケードを通り過ぎます。

アーケードを過ぎて左側には葛井寺(画像は四脚門)があります。

そこから少し歩いて今度は右側に辛國神社の鳥居があります。その距離は徒歩1、2分。

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航空写真を見るとほぼ隣接しているように見えます。

辛国神社の歴史と祭神

辛國神社の説明板で、古代に創建された神社とのこと。神社の由緒によると雄略天皇の時代(5世紀後期)に、物部目大連(もののべのめのおおむらじ)がその祖神である饒速日命(にぎはやひのみこと)を祀ったことから始まります。

この物部目大連という人物は日本書紀の雄略天皇の項目に登場します。

十三年春三月。狹穗彥玄孫齒田根命竊奸采女山邊小嶋子。天皇聞以齒田根命。收於物部目大連而使責讓。齒田根命以馬八匹。大刀八口。秡除罪過。既而歌曰。耶麼能謎能。故思麼古唹衞爾。比登涅羅賦。宇麼能耶都擬播。鳴思稽矩那欺。目大連聞而奏之。天皇使鹵田根命資財露置於餌香市邊橘本之土。遂以餌香長野邑。賜物部目大連。(日本書紀 第十四巻 雄略天皇)

(現代語訳)狭穂彦王(さほひこのみこ)の子孫である歯田根命(はたねのみこと)が、宮廷に仕える女性である山辺小嶋子(はたねのみこと)と密通した。雄略天皇はこれを問題視し、物部目大連に命じて歯田根命を取り調べさせた。

歯田根命は馬八頭と刀八振りを差し出して贖罪し、その後に歌を詠んだ。

物部目大連がその歌を天皇に伝えると、天皇は歯田根命の財産を公開処分としたうえで、餌香長野邑(えがながのむら)を物部目大連に与えた。

ちなみに歯田根命は、次の歌を詠ったと伝わります

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山辺(やまのべ)の 小嶋子(こしまこ)ゆえに 人ねらふ 馬の八匹(やつぎ)は

惜しけくもなし

(意味:山辺の小嶋子のために人びとが狙っている馬8頭を差し出すことは惜しくもない)

ちなみに餌香長野邑は、現在の藤井寺市ほぼ全域を中心とする古市台地一帯とされ、その場所を雄略天皇から物部目大連に与えられた、そして自分の祖神である饒速日命を祀ったのが辛國神社の始まりとなります。

その後、一族の物部辛國連(もののべのからくにのむらじ)が神社の祭祀を担います。その結果「辛國神社」と称するようになったそうです。

辛國神社の祭神です。饒速日命のほか天児屋根命(アメノコヤネノミコト)、素盞鳴命(スサノオノミコト)、市杵島姫命(イチキシマヒメノミコト)、品陀別命(ホンダワケノミコト=応神天皇)の5柱です。



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参道の途中に伊勢神宮遥拝所があります。

遥拝所は遠く離れた所から神仏などをはるかに拝むために設けられた場所ということで、伊勢神宮の神々をこの場所から拝めるようになっています。

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これはひとつの願いをお祈りする「一願成就まいり」の案内です。参拝料2000円で、その次に書いてある特定日(正月3ヶ日、節分、1月から11月の第1日曜日)に行われるそうです。

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参道を歩いていくと拝殿が見えてきました。

ここで辛國神社の歴史の続きですが、平安時代に『延喜式神名帳』に記載された式内社ということで、古くからある格式ある神社として位置づけられました。

(手水舎)

室町時代には河内の守護大名だった畠山基国(はたけやま もとくに)が社領200石を寄進し、さらに奈良の春日大社から天児屋根命を勧請(かんじょう:御霊を呼び寄せた)したそうです。

そして明治時代になると、全国の神社で合祀政策が行われました。辛國神社の場合は近くにあった長野神社が合祀され、その結果、長野神社の祭神だった素戔嗚命(すさのおのみこと)も祀られるようになったそうです。

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すぐ近くにある葛井寺との関係は?

さて、いちばん気になっている葛井寺との関係ですが、それを直接示す確実な史料などはありません。

とはいえ、全く無関係だったとも言い切れません。その背景にはすぐ近くにあるだけでなく複数の可能性があるからです。

前提として、近くにある葛井寺は中世には興福寺の勢力下にあり、辛國神社も春日信仰との結びつきが強まったという説があります。

平安時代に大きな力を持っていた藤原氏の氏寺だった興福寺はとても力のある寺院でした。大和の国や河内の国の藤井寺周辺に広大な荘園を持っており、その過程で葛井寺が興福寺傘下の寺として組み込まれていた時期がありました。

辛國神社は、室町時代に畠山基国により春日大社の神を合祀しました。一時期は「春日社」と称していたことがありました。

春日大社は藤原氏の氏神なので、氏寺である興福寺との関係が深く、長禄2年(1458年)の『大乗院寺社雑事記』で、辛國神社の宮司の人事権を興福寺が持っていたという記録も残っているそうです。

記事の後半で紹介されている、春日大社とゆかりのある「神使の鹿」や境内のモチーフにちなんだ、奈良・鹿モチーフの可愛い木製コースターです

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明治時代に入ると、社名は「辛國神社」に名前が戻され、近代の神社制度のもとで村社となりました。明治41年(1908年)には、葛井寺境内の南西隅にあった旧藤井寺村字長野の村社・長野神社が辛國神社に合祀されました。長野神社の祭神は素盞鳴命です。

この「長野」という社名は、葛井寺周辺の小字名に由来するとされ、古代にこの地域に置かれた「餌香長野邑」との地名上のつながりも想起させます。そのため長野神社は葛井寺のすぐ近くに位置していたことから、葛井寺との地理的な関係は明らかです。

しかし冒頭にも書きましたが、合祀以前に両社が日常的にどのような関係にあったのかを具体的に示す古い史料は限られているため、実際の関係の深さは、現時点では慎重に考える必要があります。

境内社に描かれた鹿の絵

そして、辛國神社の「春日」つながりを感じるのが、境内にある春日天満宮です。

春日と書いてあるので春日大社関係かと思うと違います。実は天満宮で菅原道真を祭神として祀られています。

春日天満宮は平成5年に北野天満宮からの勧請で祀られている神社ですが、横から本殿を見ると興味深いものがあります。

鹿が描かれていたのです。春日大社では「神が白鹿に乗ってきた」という伝承があり、神の乗り物は鹿(奈良の鹿)です。それを思わせるような鹿の絵が辛國神社境内に描かれているのはとても興味深いです。

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藤井寺市の公式ページにも記載があります。それによると毎年、辛國神社の御例祭には春日大社から神使の鹿が使者として訪れたそうです。

そして鹿が帰る前に境内にあった辛國池の清水に足を浸し、旅の疲れを癒やしたという伝説があるとのこと。その神鹿の姿が、壁面に鹿の絵として代々描き継がれてきたと考えられます。

池は埋め立てられましたが、今も「辛國池跡」としてその名をとどめています。

こちらはもうひとつの境内社の稲荷社です。祭神は宇迦之御魂大神(うかのみたまのおおかみ:稲荷大神)です。

稲荷社の社殿が腐食しているため、修理が必要なので寄進をお願いしていました。

ということで長々と境内を回ってしまいましたが、最後に一番肝心な社殿に参拝させていただきました。

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ちなみに春日天満宮から裏側のみちがあり、正面とは別の神社の出入り口がありました。

これは裏の入口から境内に入る途中にあります。この画像は神社本殿の方角を撮影しています。そのため、扉の先には結界と思われるしめ縄がありました。

境内にはトイレもありました。

ということで辛國神社の歴史、祭神や春日大社、葛井寺との関係について調べてみました。

想像以上に深い歴史のある辛國神社、参道のイベントも楽しいですが、せっかく由緒ある神社なので、しっかりお参りをして歴史に思いをはせてみてはいかがでしょう。

辛國神社

住所:大阪府藤井寺市藤井寺1丁目19-14
アクセス:近鉄藤井寺駅から徒歩5分



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この記事を書いた人

奥河内から情報発信
大阪府河内長野市在住の地域ライター・文筆家。2021年に縁もゆかりもない河内長野に移住し「よそ者」の立場で地元の魅力・町が元気になるような唯一無二の文章執筆、情報を発信しています。

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