地蔵菩薩は、河内長野市の古い街道沿いに行けばいろんなところで祀られています。名もなき地蔵菩薩もあれば、今回紹介する孝子(こうし)地蔵のように由来がはっきりしている地蔵もありますね。
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では、なぜ孝子地蔵という名前がついているのか調べてみました。
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孝子地蔵の位置を見ると、富田林との市境の近く、東高野街道沿いの市町(いちちょう)にあります。近鉄汐ノ宮駅や千代田神社の北側に位置しますね。1889年(明治22)年までは市村だったところです。
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今回は汐ノ宮ではなく、富田林側から東高野街道を歩いていて、見つけました。

こちらが孝子地蔵です。その理由についても説明があります。この説明版だけでなく、より詳しく調べると、この地蔵は巡礼の旅をしていた母子の悲劇がきっかけとなって作られたとのこと。
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その悲劇は、1728(享保8)年に起こりました。備中国(びっちゅうこく)後月(しづき)郡吉井村から西国巡礼に来た母親が、まさにこの場所で倒れていたとのこと。娘がそのそばにいました。備中国後月郡吉井村がどのあたりか確認すると、現在の岡山県井原市の西側、ここに芳井町吉井という地名があり、そこが旧吉井村と考えられます。参考までに次のような自治体の変遷がありました。
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- 1889(明治22)年6月1日 吉井村、天神山村、川相村が合併して足次村
- 1904(明治37)年4月1日 芳水村・足次村が合併して芳井村
- 1924(大正13)年10月1日芳井村が町制施行して芳井町となる
- 1954(昭和29)年5月1日 芳井町・明治村・共和村・三原村が合併し、改めて芳井町が発足。
- 2005(平成17)年3月1日 芳井町が井原市に編入 後月郡消滅
こんな遠いところから、西国巡礼のために歩いてきたのですから、昔の人は凄いですね。

当時ここは市村で、また向野村(むかいのむら)との境付近だったこともあり、両方の村の人が役人に届けを出して、医者を呼んで介抱したそうですが、1か月あまり先の5月7日の夜に亡くなりました。弔いが終わってから、残された娘だけが国元の里に帰りました。
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それから9年後に、娘が再びこの地を訪問し、村人にお礼を言います。そして娘は菩提を弔うために「左まきの道」と刻まれてた地蔵を造立しました。こうして1737(元文2)年11月24日に、地蔵菩薩の開眼法要が営まれたそうです。
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「左まきの道」というのは、良くわからなかったのですが、ちょうど孝子地蔵のところにはこのようにふたつの道に分かれています。東高野街道は左側なので、そのことかもしれません。
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ところが、別の面白い情報がありました。孝子地蔵の親子ですが、倒れたのは母ではなく父であるというのです。それによれば、倒れている際に村人たちが助けたときに、「吉井村の徳右衛門」と名乗ったというのです。
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徳右衛門であれば男性の名前ですから、母ではなく父となりますね。その情報でも、父親が倒れた後、その娘が菩提を弔って地蔵を立てたとあります。

本当は父親なのに、母親として伝わったというのなら余計に謎が深まりますが、その情報では、「父と娘」の巡礼悲話がいつしか「母と子」と語られるようになったのではと書かれていました。
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父でも母でも、娘にとっては親ですから、親を弔った孝行娘の話であることは間違いありません。良いお話を聞いた気分です。
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また説明版ではこの地域では病人が出たり、子供が夜泣きすると、この地蔵にお参りをするそうです。
東高野街道の孝子地蔵
住所:大阪府河内長野市汐の宮町
アクセス:近鉄汐ノ宮駅から徒歩7分
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この記事を書いた人
奥河内から情報発信
大阪府河内長野市在住の地域ライター・文筆家。2021年に縁もゆかりもない河内長野に移住し「よそ者」の立場で地元の魅力・町が元気になるような唯一無二の文章執筆、情報を発信しています。

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