寺内町といえば、通常は富田林寺内町を連想するのではないでしょうか?しかし、寺内町とは本来、御坊と呼ばれる浄土真宗寺院・道場とその周辺にできた町(寺の境内の一部)のことで、戦国時代を中心に主に中部・北陸地方から近畿地方にかけて形成された町の種類です。

富田林のほかにも奈良県の今井町、大阪の久宝寺などに寺内町がありました。今は形跡が全くありませんが大阪市内、上町台地の北側にも大坂寺内町というのがあったそうで、それは大阪城の前にあったのが石山本願寺だからで、石山本願寺を中核とする寺内町だったのです。

そして大ヶ塚寺内町の伝統行事として八朔(はっさく)法要が行われ、今年も9月6日日曜日の15時からどなたでも参加できるとして執り行われます。350年以上続く行事を後世に残すために行われ、おつとめ(灯ろう供養)、とうろう人形展観、法話、落語、大道芸、バザー等を行うそうです。
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そして南河内に、富田林とは別にもうひとつ寺内町が存在していることを知っている人はあまり多くないかもしれません。それは河南町の大ヶ塚(だいがつか)です。大ヶ塚寺内町の中核寺院は顕証寺です。

大ヶ塚寺内町は、一須賀村および大ヶ塚村の産土神(うぶすながみ:その土地の守り神)である壱須何神社あります。2026年の元日の初詣の様子を取材しました。

また、夏の初めに壱須何神社の羽山禰宜にも取材をさせていただいた上で、月次祭にも出席させていただきました。
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大ヶ塚寺内町のことや八朔法要のことを知った私は、実際の町の様子がとても気になりました。そこで近鉄バス(金剛ふるさとバス)に乗り込み、現場近くの阪南一須賀バス停で降りました。

バス停の前に地蔵堂があります。

地蔵堂の後ろには梅川が流れています。そして大ヶ塚寺内町は梅川の流れよりも西側の高台にあります。

ちょうど二上山が姿を見せていました。

少し歩くと大ヶ塚寺内町の入り口があり、そこには歴史ある雰囲気の建物が並んでいます。

富田林寺内町の陰に隠れるように存在している大ヶ塚寺内町についておさらいしましょう。この高台の場所は竹ノ内街道とも比較的近く、さらに梅川から石川、大和川を通じて船で大坂(大阪)とつながっていました。
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また南北朝時代には楠木一族が支配した城があったという伝承もあります。戦国時代になると、和歌山の根来寺の僧兵(根来衆)がこの地に入り込んで地域を支配したとのこと。そのリーダー格が大河将監で、死後に墓が建てられたそうです。
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天文年間(1532〜1555)頃になって高台の芝地を村人たちが開発します。その際に村名を大河塚(だいがつか)と呼んだことがから「大ヶ塚」という地名が起こったとも言われていますが、その他にも諸説あるとのこと。そして大ヶ塚には根来寺院の系統に当たる大ヶ塚道場善念寺が建てられていました。

転機が訪れたのは1568(永禄11)年のことでした。畿内(主に近畿地方)の制圧を目指していた織田信長が河内に攻め入り、抵抗していた根来衆と戦って打ち破ります。その際に残された村人たちは「自衛」をしなければと考えます。

村人たちが八尾久宝寺の顕証寺に依頼して、今まであった善念寺が名前と宗派を変えて顕証寺と言う浄土真宗寺院となりました。以降は大ヶ塚御坊として寺内町が形成されます。近くに大念寺、善正寺も建立されていたので、さらに周辺から人が集まり町が発展していきました。

石畳の坂を上がっていきます。富田林もそうですが、寺内町は高台にあって外敵から守るようになっていたと考えられます。

途中で振り返りました。明らかに高いところにあるのがわかります。
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昔から使われていたような細い道が見えます。

さてその後の大ヶ塚寺内町ですが、江戸時代になると幕府領や京都所司代領、総佐倉藩、常陸笠間藩領の領地を経て最終的に幕府領となって幕末になります。梅川のすぐそばにあったため、物資の集積として栄え、また酒造業も盛んだったとのこと。北国から長崎まで商いの取引があったそうです。

1689(元禄2)年は約500軒以上の民家や商家があったと、儒学者の貝原益軒が立ち寄って南遊紀行に記しています。歌舞伎や相撲、人形浄瑠璃の興行も盛んだったそうです。

江戸時代までは富田林と並んで南河内の都会ともいえる大ヶ塚でしたが、明治時代に大きな岐路に立ちました。それは1898年に柏原から富田林まで鉄道(河陽鉄道)が開通したことでした。

鉄道が開通したことで水運が衰退して鉄道輸送になってしまったために大ヶ塚は交易の中心から外れ、近くに鉄道駅ができた富田林がさらに発展していきました。

鉄道は石川の西側富田林から長野(河内長野)へとつながれていきますが、仮に石川の東側、大ヶ塚を経由して長野につながっていたら全く状況が異なっていたかもしれませんね。

ここは一須賀地区老人集会所です。
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集会所の奥を見ると下に降りられる場所がありますね。

下に降りられるようになっています。これを見ても高台にあることがわかります。

さらに南側に歩いていきましょう。

大ヶ塚は富田林寺内町のように国の「重要伝統的建造物群保存地区」に指定されているわけではないので、建物が建て替えられているところが多くあります。

逆にいえば富田林寺内町が国の「重要伝統的建造物群保存地区」に指定されていなかったら、今頃大ヶ塚のようになっていたかもしれません。

やがて遠くに大きな木造の建物が見えてきました。

こちらが、大ヶ塚寺内町の中核寺院の顕証寺(けんしょうじ)です。山号は近松山です。

こちらが山門です。2階建てになっていて上の階は鐘楼になっているとのこと。

門の横にあった顕証寺の説明版です。1572(元亀3)年に顕如上人が開基した寺院で、大ヶ塚総道場として開基しました。

石山合戦の後は柴田勝家に属していたことや豊臣秀吉が城を築城しようと寺を取り壊したことがあります。

門は閉じられていますが、すぐ右横は空いているので境内のほうに入ってみました。

現在の本堂は1794(寛政6)年頃のものです。1645年に再建したものは火災で全焼したそうで、その後25年の歳月をかけて再度建てられました。建築面積は584平方メートルあるとのこと。

そして元禄時代のころに皇室から下賜された灯篭人形を飾って一般に見てもらうことがきっかけで、多くの人が集まったために自然に八朔市が形成されました。その八朔法要が現在まで続いているんですね。
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ちなみに八朔(はっさく)とは旧暦の8月1日のことです。このころには早稲の穂が実り始めることから、その年の新穀を納めて祝っていたそうです。

扉にはいくつかの家紋が記されています。本堂の中に安置されている考えられる本尊阿弥陀如来は、説明版によると春日仏師の作とのこと。

大きな本堂はとても立派で京都や奈良にある寺院のような感じがします。

本堂の右側は墓地になっていました。

せっかく大ヶ塚まできたので大念寺、善正寺のほうにも行ってみましょう。
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こちらは途中にある大ヶ塚地区・老人集会所です。

その集会所の後ろに大きな木造の屋根が見えてきました。

ここにはふたつの寺院が並んでいます。最初は善正寺からです。

善正寺は浄土宗の寺院です。山号は常照山です。
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善正寺の公式ページ(外部リンク)によると、開山は1582(天正10)年です。

安置されている聖観音菩薩は建久年間(1190年〜1198年)のころ。曽我五郎時崇という武将との深い関係があるそうです。

そしてその隣にあるのが大念寺です。

融通念仏宗で山号が紫雲山迎接院大念寺という名前です。

説明があります。融通念仏宗の中本山で1323(元亨3)年の法明上人の開基、1646(正保3)年に本堂が再興し、現在の伽藍もそのころのものとのこと。

融通念仏宗として、大阪府下では最古のものだそうです。
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本堂の表門と鐘楼は大阪府指定の有形文化財です。

さらに観音堂に安置されている木像十一面観音立像は、像の高さが172.9センチメートルある国指定の重要文化財です。

さて大念寺の入口そばに見つけた石の床の中に「市場町」「上山」の文字が刻んであります。かつて栄えていた大ヶ塚寺内町の名残を感じます。

こちらにも石が刻まれています。左側が當(当)大念寺、右側が是より八丁二十八間と刻まれています。1丁(町)が60間で約100メートルなので、850メートルくらいのところを指しているようです。

その正体がこちらです。石碑には左右ともに「国寶(国宝)」とあり、その下に刻んでいるものを現代に訳すと「観世音菩薩が当大念寺にあり」と「是より850メートルくらいのところに大佛道がある」と言う意味が刻まれています。まず1950(昭和25)年の「文化財保護法」が施行された際に、それまでの国宝はいったん重要文化財という扱いとなり、そこから改めて国宝を選びなおしたという経緯から、「国寶」と書いてあっても重要文化財である場合があります。
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「大佛道」と呼ばれる重要文化財があるのかなということで探してみると、明確には見つかりません。ただ距離も近い物として東側の大宝にある大宝山得生寺に高さ2.5メートルの「木造阿弥陀如来坐像」が、国指定の重要文化財なので、そのことを指しているのかもしれません。ここで大仏の定義を調べると、座っている仏像の高さが2.4メートル以上のものを指すので、「木造阿弥陀如来坐像」は大仏と定義できます。

目の前には随分と大きな駐車場がありました。

こちらにも石碑がありますね。右に行くと金剛山道と刻んであります。

また左が「国寶大佛道」とあります。その先には大宝山得生寺があるので、やはり「大佛道」とはそのことを指しているようです。

しばらく歩くと下りになっています。大ヶ塚の端まで来たようです。
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ということで、大ヶ塚寺内町を紹介しました。南河内にある寺内町は富田林だけではないということですね。9月7日に伝統行事の八朔法要があるので、そのタイミングに行かれるのでしたら、ついでに大ヶ塚の町並みをお散歩されてはいかがでしょう。

大ヶ塚寺内町(近松山顕證寺)
住所:大阪府南河内郡河南町大ヶ塚106
八朔法要日時:9月7日(日)15:00~17:00
アクセス:喜志駅から阪南一須賀バス停、富田林駅から大ヶ塚バス停下車から徒歩(いずれも近つ飛鳥博物館前行)
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この記事を書いた人
奥河内から情報発信
大阪府河内長野市在住の地域ライター・文筆家。2021年に縁もゆかりもない河内長野に移住し「よそ者」の立場で地元の魅力・町が元気になるような唯一無二の文章執筆、情報を発信しています。
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