【南河内郡千早赤阪村】泉北と繋がる府道は大阪唯一の村にある寺院前が起点。そこに昭和の工事に関する碑が

大阪狭山と南河内郡の歴史

近大病院が移転するなど、再整備が注目されている泉北方面から東に伸びる道の中に、大阪唯一の村、千早赤坂村まで続いている道があります。

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泉北1号線と呼ばれている道は、大阪府道38号「富田林泉大津線」というのが正式な名前です。狭山池の南側を通過するあたり、茱萸木1丁目付近から大阪府道202号線「森屋狭山線」という名前になります。

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森屋狭山線は、大阪狭山市から富田林に入ると金剛住宅地を横断していきます。さらに石川に架かる高橋を渡ると、滝谷不動尊への道が続きます。


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滝谷不動尊を越えると中佐備交差点があり、さらに東に進んでいくと、大阪唯一の村千早赤阪村に入り、それが森屋まで続きます。

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大阪府道202号線は森屋狭山線という名前なので、本来は森屋が起点です。画像は大阪府道・奈良県道705号「富田林五條線」から分岐(又は合流)する地点。森屋西口バス停の近くです。


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バス停の前にあるのが、九品山 西楽寺です。浄土真宗本願寺派ということ以外は特に情報は出てきませんが、門の上に鐘楼がある鐘楼門になっている建物が特徴的です。

西楽寺の道路を挟んだ反対側に、大きな石碑があります。西楽寺の歴代院主のひとりが昭和時代の道路工事に深くかわかっていたという証となる石碑です。


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葛本清脩紀功碑(功績をたたえる碑・記功碑)です。これは目の前の道路「堺大淀線(大阪府堺市を起点とし、奈良県吉野郡大淀町方面へ至る主要地方道)」の新設工事に関するものです。但し今は堺大淀線という道路名がなく、複数ある別の道路に引き継がれているようです。

石碑には、中佐備行者堂前と森屋菊水橋の間の工事に関することと明記されています。恐らく上の画像の赤い線の部分に関するものと想像されます。


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中佐備行者堂という名前のものは見つかりませんでしたが、中佐備に戸立行者堂があるので、この場所だった可能性が高いです。

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中佐備行者堂前から現在のみつばち博物館やきらく農園の直売所前の道が、新設された工事の道路と想像できます。石碑が建てられたのが1966(昭和41)年という事なので、その少し前に開通したようです。


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こちらは1920年代から30年代にかけての古地図です。佐備(中佐備)から道がありますが、途中から上(北側)に道が向かっており神山に繋がっています。そして森屋方面も道らしきものが見えますがとても細い道だったのではないでしょうか。

神山方面に向かう旧道は、今でも道の駅かなんの近くまで残っています。画像左側の下り道、当時は広い国道や道の駅もなかった時代、道はそのまま南河内郡中村の神山(現:河南町神山)に向かっていました。それに対して右側の道が1966年に工事をして新設された道というわけですね。

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そして工事した道は石碑のある少し南側、森屋菊水橋までと書いてあります。


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森屋菊水橋は、森屋バス停のすぐ前に架かる橋です。

石碑の下に碑文に対する詳細が記載しています。冒頭に委員長の名前である葛本清脩が西楽寺院主であったことを記しています。碑文によると葛本清脩は1947(昭和22)年に、上記区間の道路新設を提唱したことで、協力委員長に推されたとのこと。

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そして建設中はその完成のために全身全霊を注ぎ、1954(昭和29)年に初志を貫徹したとあります。その結果この地の交通産業の画期的飛躍につながり、それだけではなく金剛山麓の景観の美しさも併せ持つ道路になったことが記載されています。

また森屋神山間の新設道路と着工を競い合っていたこと、院主が浄財(じょうざい:寺や神社に寄付・奉納されるお金)を出して道路工事を早めたこともあったことから、その功績を記した石碑(記功碑)を建てたという説明が書いてありました。

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そして紀功碑を建てる敷地についても寄贈する方がいたことで、ここに紀功碑が建てられました。紀功碑のおかげで、そんな歴史が森屋や富田林佐備にあったことを知ることができました。


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葛本清脩紀功碑

住所:大阪府南河内郡千早赤阪村森屋
アクセス:森屋西口バス停下車すぐ

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この記事を書いた人

奥河内から情報発信
大阪府河内長野市在住の地域ライター・文筆家。2021年に縁もゆかりもない河内長野に移住し「よそ者」の立場で地元の魅力・町が元気になるような唯一無二の文章執筆、情報を発信しています。

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