【河内長野市】三日市町の由来、その前の名は?秋祭りに江戸天明期の提灯を掲げる庄屋の末裔は地域の語り部

河内長野の歴史

地域の語り部といえる人の情報は貴重です。先日もそういう方から、本町七つ辻が戦前までは七つ辻ではなく家が建っていたことを伺いましたが、三日市の上田町でも、地域の語り部と言える方から貴重なお話を伺うことができたので、ここでご紹介しましょう。



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こちらは秋祭りの時に玄関の前に掲げられる提灯です。河内長野では提灯が宮入りするお祭りが行われていて、天見、流谷、滝畑では今でも提灯のお祭りが残っています。

(Beyond万博inかわちながので地車を万博に出したことを報告する上田町の方々)

それとは別に、現在上田町では提灯は一軒の家だけが祭りの時に提灯を掲げているそうです。

祭りの時だけ提灯を出しているのは、竹鼻さんです。大阪府文化財愛護推進委員でもある竹鼻さんに、今回河内長野市社会教育第2課の方を通じてお話を伺う機会を得ました。なお、個人の自宅なのであまり詳しい場所は書けませんが、高野街道の近く上田町とだけ記しておきましょう。



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天明年間の提灯が現存

竹鼻さんが秋祭りに掲げる提灯は、天明年間のものといいます。当時は100の提灯があって参道に並んだそうです。これは明治から昭和の初めごろまで行われていました。しかし現在は行われておらず、竹鼻さんの家にひとつだけ残っていて、祭りの時に家の玄関の前に飾られています。

(郷土史の研究者でもある竹鼻さんは、高校教師をされていました)

竹鼻さんの話では、1796(寛政9)年に堺の大工が大小ふたつの地車を作ったとのこと。この件は、江戸幕末に烏帽子形八幡神社関連の諸事が書かれた「氏神八幡宮百燈出来手続書」にも記載があります。

やがて大きいほうの地車を当時の上田村が引き取りに行ったそうです。その明確な時期は不明で、1892(明治25年)頃という説もあるようですが定かではありません。しかし、大工から引き取った地車が大きすぎて困っていたそうです。

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1896(明治29)年に堺で「地車騒動」とよばれる地車の町同士で大げんかがありました。結果的に2名の死傷者を出してしまい、数10名が逮捕されることになり、以降は堺での地車の曳行がいっさい禁止されてしまいます。(堺市西区鳳地区などの例外あり)



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(現在の上田町の地車)

この騒動で多くの地車が河内長野に流れてきたそうですが、このタイミングで上田町は大きな地車と小さな地車を交換したとのこと。交換した地車が約100年間上田町で活躍し、他の地車が新調される中、上田の地車は最近まで河内長野最古の地車だったそうです。

(現在の上田町の地車)

しかし、2014年に上田町が地車を新調し、古い地車は柏原市安堂に移りました。「歴史ある地車だったが」と、竹鼻さんは本音では残念そうでした。

(提灯は今でも取り外しなどができるとのこと)

今は10月の第2土日の秋祭りに地車が曳行されていますが、昔は旧暦8月から9月にかけて行われていたそうです。明治以降には新暦の10月9日、10日だったのですが、子どもたちが祭りに参加できるようにと現在のスケジュールになったそうです。

上田町には南北に国道371号線がありますが、竹鼻さんによると「あれは七つ辻から和歌山に続く新道」といいます。これは福本種苗店さんの取材時に聞いた、戦時中にできた軍用道路の話と一致します。そして竹鼻さんによると、終戦直後は米軍の車もよく通ったそうです。



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三日市の名前の由来は

(三日市地区は教育の聖地と呼ばれていた)

竹鼻さんはもともと上田の庄屋の家系で、元の三日市幼稚園の所に屋敷があったそうです。

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そして「教育の聖地」説明版にも記載がありますが、竹鼻さんの先祖にあたる竹鼻仙次郎が師匠となって、江戸時代の文化・文政期に寺子屋を開塾したとあります。

また上田町はかつて三日市宿の宿場の一部ですが、三日市宿は大坂(大阪)から八里(約32km)、高野山から八里とちょうど中間点にあたります。
そのような場所なので三日市宿は物流の拠点でもあったのですが、ここで竹鼻さんは興味深いことをおっしゃいました。それが「三日市」の名前の由来でした。

(ふるさと歴史学習館にある復元された木屋堂)

これまで三日市町駅にはかつて宿場町があったことと、北側にあった長野(木屋堂:河内長野駅周辺)とふたつの拠点があったようなことは、図書館で調べたり聞いたことがありました。しかし、三日市そのものの名称の由来は意外に知らなかったのです。

(紀ノ川に架かる橋本橋)

竹鼻さんによれば、江戸時代のころ、紀ノ川を船を使って橋本に来た海産物を、高野街道を経由して現在の河内長野方面に運ばれたのですが、それを堺の商人たちが買いに来るために、現在の三日市のあたりで露店の市が開かれるようになりました。



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当初は不定期開催だった市ですが、やがて定期開催をすることとなり、それが月3回で3月つく日(3日、13日、23日)としたことから三日市という地名が誕生したといいます。

そして、三日市と名前が付く前は「諸瀬(もろせ)」と呼ばれていたそうです。ちょうど高野街道の石碑があるところ、石見川と天見川との合流地の北側に広がる低い場所をそのように呼んでいたそうで、その名残として三日市町駅前にある大師寺の山号が諸瀬山となっています。

(河内長野駅近くにある諸越橋)

「長野(河内長野駅周辺)のあたりは『諸越(もろこし)』という地名があるから関係があるかもしれない」と、竹鼻さん。三日市は明治時代になると市から商店となり、郵便局ができるなど発展していきました。

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さて、三日市にはかつて木綿問屋を経て造り酒屋があった時期がありました。登録有形文化財になっている八木家住宅で「東家屋」という屋号で醸造されていました。竹鼻さんによれば、西條酒造(天野酒)よりも古くから醸造をしていたそうです。ちなみに造り酒屋の日本酒名は「味香一正宗(みっかいちまさむね)」です。

味香一正宗はもう醸造されていませんが、現在は三日市小学校区情報誌「味香一だより」としてその名前が残っています。



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(油屋跡)

また、幕末の天誅組が立ち寄った油屋はかつて大名本陣としての機能していたのですが、そのようなことがあり、油屋が満室になることがありました。そうなると北側の上田に宿泊客が来ていたそうです。こういうエピソードは地域の語り部でないとなかなかわからない話です。

貴重な資料の数々

竹鼻さんは話をしながらいろんな所蔵品を見せてくださいました。

代々上田村の庄屋を務め、江戸時代中期には寺子屋を開いた竹鼻家には博物館に展示してもおかしくないような超貴重な資料が本当に多くあります。

「ここに記載があるでしょう」と、竹鼻さんは当時の資料を基に説明をしてくださいます。

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資料は次々と出てきます。

これは専門家の方なら意味がわかるのかもしれませんが、私では最後に「竹鼻」の文字を確認するのが精一杯でした。

こちらは元禄年間の資料とのこと。「河州烏帽子形八幡宮(烏帽子形八幡神社)」に関する内容です。後で聞いた話では『河内長野市史第七巻 史料編四』に翻刻があるそうです。余談ですが「河州」とは河内国のことで、和泉国を「泉州」。信濃国のことを「信州」と呼ぶのと同じ表現方法です。

「河州錦部郡」から始まる文章と思われますが、部分部分しか読めないのが残念なところ。1行目の最後から2行目にかけて「上田村烏帽子形八幡宮」と最後の「大坂(大阪)」だけはわかります。



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次はこちらの資料です。こちらも後で知りましたが、前掲資料と同内容(「伝記写」の原本)です。

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「河州錦部郡烏帽子形八幡宮」と読めます。

竹鼻さんは書物のところどころに付箋を貼っていました。付箋には元和八年(1622年)の文字が見えます。

こちらも多くの付箋がついています。そして左下には、上田村、喜多村、小塩村と今も残る地名の村が書かれています。


(竹鼻さんが収集している豊富な資料の数々)

竹花さんは先祖代々から伝わる資料以外も収集されています。

こちらは烏帽子形八幡神社の周辺の図のようです。



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また原本を複写したものを保存している場合があります。

「あ、これこれ」とある資料を取り出しました。

それがこちらですが、これは烏帽子形八幡神社にかつて境内に放生池(ほうじょうち/ほうじょういけ)」があったことを示す資料です。

それについては、以前、烏帽子形八幡神社を河内長野ボランティアガイドさんに案内していただいた時に伺いました。境内にある比良野社の所にかつて池があったそうです。

比良野社にある説明版によれば、延久年間(1070年)ごろに社の隣に池があったとのこと。池に住んでいた生きた魚を石清水八幡宮そばの川まで持っていき、そこに放流したというのです。

石清水八幡宮といえば天見と流谷の間にある八幡神社も石清水八幡宮の別宮として神様を呼んだ時からの風習「勧請縄かけ」があります。当時、この地域では八幡神(応神天皇)への信仰が強くて、このようなことが行われていたというのは興味深いですね。



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25人で生きた鯉を生きたまま放流したということで、「放流会神事」が行われたという記録が残されています。石清水八幡宮の神様とこの地域との往来は、東高野街道を経由しているのかなと想像しました。さらに現在の石清水八幡宮の「勅祭 石清水祭」(外部リンク)の元となったのではないかと推測されているそうなので、そう考えるとすごいですね。但し、専門家の見解によると中央の勅祭の方法が地方に伝播していくのが一般的な現象なので、「あくまで三日市で受け継がれている伝承ではないか」とのこと。

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系図も見せてくださいました

「写しですが」といいつつ竹鼻さんは意外な資料を持ってきてくださいました。これは甲斐荘(庄)氏の系図で、南北朝時代の楠木氏の末裔とされ、室町・戦国時代には畠山氏に仕え、江戸時代には旗本だった家柄。烏帽子形城の城主だったとされる一族です。

最初のページを見ると、いきなり古代の天皇、敏達天皇からスタートしています。

しばらく系図が続くのですが、竹鼻さんはあるページで手を止めました。そこには「正成」とあります。これは楠木正成です。

系図は分家なども含めて書かれているため、正成の父に戻るには数ページ戻る必要がありました。正遠というのが楠木正成の父親とされる人物です。

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正成から系図を数枚めくると、正治という人物が出てきます。その下に甲斐荘(庄)の文字が見えます。正治は浜松で徳川家康に仕えたとのこと。



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そして正治の子が正房で、大坂の陣両陣に従軍して戦功をあげたために、甲斐庄氏の出自の地の河内国錦部郡2000石に加えて烏帽子形城を賜ったとのこと。烏帽子形城は廃城となりましたが、幕末まで旗本としてこの地域を領地としていました。

またこちらは明治3年の資料で、先祖の方の成績が優秀だったことを示すもの。本当にお宝の山ですね。

このほか大阪府教育委員会による「銃砲刀剣類登録証」の交付を受けている、鳥獣用のおどし鉄砲として使用していた火縄銃を間近で見せてくださりました。いずれにしても普段お目にかかれない貴重な資料を拝見できたことはとても勉強になりました。

かつて上田にも提灯行列があった可能性を示唆する提灯のことからご紹介いただいた、竹鼻さんの貴重な資料を見てお話を伺いながら、これからも地域の語り部の方の話を聞く機会を持つことができればと改めて感じました。

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この記事を書いた人

奥河内から情報発信
大阪府河内長野市在住の地域ライター・文筆家。2021年に縁もゆかりもない河内長野に移住し「よそ者」の立場で地元の魅力・町が元気になるような唯一無二の文章執筆、情報を発信しています。

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