【南河内郡河南町】かつて神社が存在した場所に残る白木神社遥拝所。その先には今鎮座する大阪唯一の村に

大阪狭山と南河内郡の歴史

南河内地域の各地を歩くようになってから知った歴史のひとつに、明治時代の村の合祀政策があります。各村にあった鎮守の神社を明治時代にひとつの神社に合祀したもので、国家神道の確立と地方行政の効率化が目的として行われた政策でした。

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前提として、1989(明治22)年に江戸時代から続いていた各村をある程度まとめてひとつの大きな村にした政策があります。これは明治の大合併「市制町村制」の施行とよばれるもので、近代的な行政単位を作るために行われました。


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その後、新たに誕生した大きな村ひとつに対してひとつの神社にしようということが決められ、1898年から1916年の間に大阪府内では「境外無格社」と位置づけられた神社の約8割、「県郷村社」と位置づけられた神社の約5割が無くなったとの記録が残っています。

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その中には河南町白木にあった白木神社も含まれています。合祀後の元神社のその後ですが、地元の要望で復社するか、政府の方針を無視して地元でひそかに祀る、あるいは跡地として残る、もしくは完全に消滅するパターンが多いようです。しかし、白木神社の跡地には、遥拝(ようはい)所があります。

こちらが白木神社遥拝所です。「白木」と書かれた看板、白木バス停のすぐ近くです。ここで「遥拝」についておさらいすると、遠く離れた場所から神仏を拝むための場所です。

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(建水分神社に宮入した白木の地車)

では白木神社がどこに合祀されたかといえば、大阪唯一の村千早赤阪村にある建水分神社です。その証拠に白木の地車の宮入先が建水分神社。つまり合祀された神様がいる神社に宮入しているわけです。


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ちなみに建水分神社には17社もの神社が合祀されたため、千早赤阪村内はもちろんのこと、河南町や富田林の地車の一部も宮入し、南河内でも最大級の数の地車が宮入しているという結果になっています。

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つまり遥拝所の向かっている先は、かつてこの地に鎮座し、明治時代に建水分神社に合祀された神様の方角を向いていると考えられます。政府の方針で神様は千早赤阪村水分に行ってしまいました。当時の記録では「一神社に三百円以上の基本財産が必要条件」(河南町史)もあったとのこと。当時の300円は今の数百万以上の価値があったそうです。


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それでも地元の人は神社のあったところから神様を拝むために、今鎮座している神様の方角(建水分神社)を示す遥拝所を建てたということになります。1919(大正8)年に遥拝所を建てたそうです。

改めて地図で確認すると、白木神社遥拝所からほぼ南の方角に建水分神社が鎮座していることがわかります。

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御神体こそ鎮座していないものの、石灯籠や鳥居が残っているので、一見神社のように見えます。


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さて、白木神社の由来を調べると、「新羅」というキーワードが出てきます。新羅(しらぎ)がなまって白木(しらき)になったというもので、古代の5、6世紀ごろに現在の河南町に渡来系の帰化人が多く住みついたとされるので、関係する神様を祀ったのではとされます。

また河南町史によれば白木と長坂・今堂を含めて白木三郷と呼ばれていたそうで、牛頭天王(ごずてんのう)を祀っていました。牛頭天王は神仏習合の神で、仏教発祥の地、祇園精舎の守護神と素戔嗚尊(すさのおのみこと)が同一視されたそうで、明治時代以降に神仏が分離されると素戔嗚尊を祀る白木神社に改名したとのこと。かつては境内に神宮寺の白木観音堂もありましたが、明治の初めごろに廃寺となったそうです。

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「遥拝所」と書かれた石碑の左側に刻まれている文字がはっきり判読できませんでしたが、建立した人の名前かもしれません。


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刻まれている石碑が横に置いてありました。

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手水舎?のようなものもありました。


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白木神社遥拝所

住所:大阪府南河内郡河南町白木
アクセス:白木バス停下車徒歩1分

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この記事を書いた人

奥河内から情報発信
大阪府河内長野市在住の地域ライター・文筆家。2021年に縁もゆかりもない河内長野に移住し「よそ者」の立場で地元の魅力・町が元気になるような唯一無二の文章執筆、情報を発信しています。

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