正月が終わっても関西地域ではお祭りモードが1週間後に続いていきます。それが十日戎で、神社によっては初詣以上に多くの人でにぎわいます。
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十日戎は、戎(えびす:恵比寿、恵比須)を祀っている神社や境内に戎を祀っている神社で行われます。通常は9日(宵宮)、10日(本宮)、11日(残り福)の3日間ですが、日程が少ない神社や河内長野の烏帽子形八幡神社にあるえびす社のように、6日、7日と一足早く行われる場合があります。
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そして大阪唯一の村「千早赤阪村」でもえびす祭が行われるのですが、それが出合戎と呼ばれるものです。

出合戎は藤野森神社です。場所は千早赤阪村役場の横の奥、役場の後ろに隠れるように鎮座しています。

2026年は1月9日、10日の2日間です。福引などは行われないとのこと。

役場の奥にあって前から気になっていた出合藤森戎神社(出合戎藤森神社とも)に行ってみることにしました。
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左に見えるコンクリートの上に千早赤阪村役場が立っています。
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その右側の細い路地を歩いていくと出合戎藤森神社が見えてきます。

こちらが出合藤森戎神社です。由来を調べると社名についている「藤ノ森」という場所に鎮座しているえびす神です。

由緒記によれば社殿の周囲に加え、背後一帯の高地は、藤ノ森と呼ばれていたそうで、かつては老松や雑樹が鬱蒼と茂っていた奥深い景勝地だったそうです。

そして、この神社は千早赤阪村出身の武将楠木正成が創建したと伝わっています。創建の経緯は、楠公(正成)が夢で「秘蔵の神体」というものを感じたために、藤ノ森の場所に1331年8月に命じて社殿を造営したとのこと。
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(村役場の裏手に道が続いている)
拝殿や瑞垣(みずがき:本殿など神聖な場所を囲むための垣根)や付属の建物があり、今よりもはるかに荘厳だったそうです。
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ところが正成の没後、南北朝時代に戦火に遭いました。1359(正平14)年2代将軍足利義詮からの援軍要請で、南朝方の拠点を攻略することになった畠山国清が義詮らとともに赤阪城(下赤坂城?)を攻撃します。

藤ノ森と言われた場所は、下赤坂城から見て真下に位置しているため、正成が建立した神社にまで火が燃え広がって焼失してしまったのです。
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楠木氏は神社の復旧することなく没落してしまったため、有志が相談して仮の社を立てて、改めて御神体を祀ったとのこと。

そして現在の社殿は1924(大正13)年12月に、有志によって再建したそうです。

また、神社とは直接関係のないエピソードもあります。賤ヶ岳の七本槍のひとりで豊臣秀頼に仕えた片桐且元(由緒記には市之正と記載)が、検地奉行として徳川幕府の敬著の検地をおこなった際に、藤ノ森だけは金剛山の一部として記録したそうです。背景には藤ノ森が霊域ということで、個人所有の山林とは別にしたという意図があったとのこと。

由緒記の最後には、古老が語ることと前置きし、楠公正成建立という伝承があることから1月の大祭(十日戎?)遠近の参拝者が社に集まったそうで、数百もの露店が出たそうです。
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そして神社のすぐそばに、管理していると考えられる山ノ井地区集会所があります。集会所から歩いて10分位のところに楠公誕生地や楠公産湯の井戸がありますが、あのあたりも含めて「山ノ井」と呼ばれている場所とのことで、正成が誕生したのが「水分山の井」とされます。
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まとめると楠木正成の夢枕に出てきたお告げから、生まれた故郷「山の井」の中にある下赤坂城の麓にある霊的な地とされた「藤ノ森」にえびす神を祀ったということです。それが現在も鎮座している出合藤森戎神社というわけですね。そんな歴史を振り返りながら大阪唯一の村にあるえびす神に手を合わせてみてはいかがでしょう。
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出合藤森戎神社
住所:大阪府南河内郡千早赤阪村水分
アクセス:千早赤阪村役場前バス停下車徒歩1分
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この記事を書いた人
奥河内から情報発信
大阪府河内長野市在住の地域ライター・文筆家。2021年に縁もゆかりもない河内長野に移住し「よそ者」の立場で地元の魅力・町が元気になるような唯一無二の文章執筆、情報を発信しています。



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