【南河内郡河南町】昔の字(あざ)名を冠した南北朝時代作と伝わる石像が鎮座する神山の馬場地蔵

大阪狭山と南河内郡の歴史

古い住所の表記には大字(おおあざ)や字(あざ)というものがあります。大字と字を改めて確認すると、大字は江戸時代の村を継承した範囲・地名で、字(小字)は大字より小さい集落のまとまりにつけられた地名です。

「PR」 「PR」

明治時代以降、市町村の合併が繰り返されながらも、里山など山の近くでは今でも住所として利用されているため、昔の村の名前などを調べるのに重宝します。

神山(こやま)も字の一種で、河南町の旧中村に属していました。1889(明治22)年に合併する前までは旧神山村が存在していたそうです。


「PR」

そんな神山交差点のすぐ南側にある神山中交差点のそばに、馬場地蔵があります。地蔵堂そのものは、古くからある街道を中心に点在しているので珍しくはないのですが、

「PR」 「PR」

こちらの地蔵堂は「馬場地蔵」という名前だけでなく、由来についての説明があったのでとても気になりました。

場所は神山の中心部と言える場所で、地車小屋がすぐ隣にあります。ふれいあい会館や神山地区集会所からも近いです。


「PR」

こちらが説明版です。元からここにあったわけではなく、昔は北東200メートルの所に馬場と呼ばれる小字があったものを移築したとのこと。地図で確認すると馬場地蔵から北東200メートル付近は現在田園地帯になっているあたりです。

「PR」 「PR」


(1960年ごろの古地図を見ると神山から北東の方角に上之段の地名が見える)

古地図で見ると「上段」「上之段」という地名(字)があったようで、それは現在の今堂池の南西のあたりのようでした。ということで馬場という小字名は確認できずもっと古い時代の可能性があります。


「PR」

さらに調べると、古地図で「上之段」の西隣に旧寛弘寺村があるのですが、実は馬場地蔵はそこにあったという記録を見つけました。それによれば、『河内名所図會』に次のように書いていると記載しています。

寛弘寺 村の名とす。大日堂あり。又、馬場地蔵とて、霊験新の尊像まします。むかし、伽藍魏々たり。今、古礎遺る。

これが確かなら、昔、旧寛弘寺にあった(又は、隣接地域にあった「馬場」という小字・集落)で安置されていた馬場地蔵が何らかの理由で、南側(南西)の神山に来たことになります。但し現時点でそうだったという明確な情報はありません。

「PR」 「PR」

さて、地蔵堂の中をのぞくと地蔵菩薩が安置していますが、説明によれば南北朝時代ごろの作といいます。明確な年代は不明ながらも「霊験あらたかで庶民の信仰厚い馬場地蔵」は古い記録にも出てくるそうです。


「PR」

地蔵堂の横に石灯籠があります。地蔵堂の左右にあり、江戸時代以前に建てられたという情報があります。

「PR」 「PR」

地蔵堂の隣には交通安全のために、後年安置されたと思われる「千手観世音菩薩」像がありました。


「PR」

そしてこちら、横になっているのですが、「河川區域標」と刻んであります。これは現在の河川距離標のことを指しているらしく、国土交通省(外部リンク)によれば、河川距離標には「川の名前」、「右岸、左岸」、「距離」、「地先名」を表示していています。

先ほどの千手観音菩薩像の周囲を見まわすと、背後に橋が架かっていて、千早川が流れています。そして古い「河川區域標」は左側の白丸で、右側の白丸が現在の「河川距離標」と考えられます。

馬場地蔵のすぐ隣に金剛橋という名前の橋が架けられています。

「PR」 「PR」

金剛橋という名前の橋は複数あり、大阪狭山市の西除川に同じ名前の橋があります。また石川本流には金剛大橋という名前の橋があります。


「PR」

「字(あざ)」である神山の中心部に古くからご利益があると知られた「馬場地蔵」、そして隣に鎮座し、交通安全を願って新たに安置された千手観音菩薩は、今日も地域の人々を見守っています。

馬場地蔵

住所:大阪府南河内郡河南町神山
アクセス:神山バス停下車徒歩1分

「PR」 「PR」

この記事を書いた人

奥河内から情報発信
大阪府河内長野市在住の地域ライター・文筆家。2021年に縁もゆかりもない河内長野に移住し「よそ者」の立場で地元の魅力・町が元気になるような唯一無二の文章執筆、情報を発信しています。

コメント

タイトルとURLをコピーしました