【富田林市】東日本大震災の門外不出奇跡の稲穂がなぜ富田林に?吉村善美市長に伺いました #知り続ける (2025年3月11日アーカイブ記事)

インタビュー記事

※アーカイブ記事なので情報は掲載当時のものです。

新春特別アーカイブ3記事の第2弾は吉村善美富田林市長のインタビューです

3月11日と言えば、東日本大震災が起きた忘れてはならない日ですね。ところが大阪・南河内地域では直接的な被害はなかったので、基本的にテレビ・新聞などのメディアでその惨状を見るだけでした。なので一般的に考えると東日本地域と比べるとその関係性が薄いと感じるものかもしれません。

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(富田林市役所)

しかし、富田林は違います。あの日、津波被害を受けた岩手県大槌(おおつち)町で奇跡的に稲穂が見つかったのですが、その稲穂の一部を当時大阪府議だった吉村善美市長がもらい受けることになり、毎年喜志にある田んぼで小学生5年生による田植えと稲刈りが行われています。

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私も過去に3回、奇跡の復興米の田植え稲刈りの場面に取材させていただきました。しかしながらこの活動がスタートしてすでに11年目。なぜ門外不出の貴重な稲穂が富田林にあるのかというとても大切なお話を、改めて伝え継がなければいけない、そのためには、この毎年の恒例行事のきっかけを作った吉村市長に当時のお話を伺って経緯を記させていただくことが、東日本大震災を「#知り続ける」ことになるのではないかと考えました。そして、お忙しい中、吉村市長にお時間を頂くことができました。

1、奇跡の復興米とは

富田林に住んでいる人にとってはもう当然のこととは思いますが、念のために「奇跡の復興米」について簡単におさらいをしましょう。2011(平成23)年の今日、東日本大震災が発生し、東北に大津波が押し寄せました。大槌町も例外ではなく、町庁舎の駐車場で町長以下職員が集まって対策を行っていた矢先に津波が押し寄せ、町長と職員たちが命を落としたのです。


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(赤い部分が奇跡の復興米の稲穂が見つかった大槌町安渡地区)

町長を失うという緊急事態の中、大槌町はみんなで力を合わせ、復興に向けて動き出していました。震災年の11月のある日、津波から生き残ったものの大槌町安渡にあった自宅が全壊したため山間部の仮設住宅で暮らしていた菊池妙さんが、自宅跡に来ていました。涙を浮かべながら変わり果てた自宅の跡地を見渡してた時、突然視線があるものを捉えました。


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(菊池妙さんの手紙 2024年秋)

それが奇跡の復興米の母なる稲穂でした。高さは30センチほどの3株の稲が、なぜか自宅玄関の跡地に生えていたのです。最初は「ススキかなあ」と菊池さんは思ったそうですが、いや違う、どうも稲穂のように見えてきたのです。

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(菊池妙さんの手紙 2024年秋)

しかしほんとうに不思議です。なぜならば大槌町安渡は漁師町で後ろはすぐ山、田んぼがあるような地域ではまったくないからです。でも「多くの人が亡くなった地域で大地には新たな命が育まれている」と感じた菊池さんは、それを仮設住宅に持ち帰りました。


(2024年の田植えにて)

周囲の人たちは口をそろえて「稲?そんなわけはない。安渡に田んぼはないから雑草かススキだ」と言うのですが、菊池さんは「いや稲に違いない。津波でどこかから流されてきた籾が芽吹いたんだ」と確信していました。


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(2024年の田植えにて)

ある日、農業大学の教授と学生が近くに来ると知った菊池さんは、これが何であるのか実際に見てもらうことにしました。すると「確かに稲です」と言われたのです!「専門家がそういうから間違いない。津波の跡地で生きてくれたんだ」と、菊池さんの悲しみが少し薄らいだと言います。

(2024年奇跡の稲穂の10年以上の子孫になる苗)

こうして、NPO法人「遠野まごころねっと」の協力により、2012年より復興米の作付けが始まりました。震災の翌年2012(平成24)年秋に5キロを収穫し、その次の年2013(平成25)年には380キロまで増え、ついに被災者の方に米が振舞われるほどの量になりました。「よく一人前に育ってくれた」と、第一発見者の菊池さんは感極まったと言います。

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(富田林和太鼓まつりでメッセージを送ってくださった菊池さん)

菊池妙さんが発見した稲穂を植えて収穫した米は、「復興のシンボル」として大槌のブランド米にすることまで話が進みます。米の品種も「ひとめぼれ」と判明したことで、いよいよ「大槌安渡ひとめぼれ」というブランドで販売することになりました。

2、府議ではなく個人としてボランティアに参加

(富田林和太鼓まつりで報告された岩手県大槌町の大槌駅前の様子)

「復興ボランティアは個人の名でに登録しました」と吉村市長は冒頭、意外なことを言われました。それは当時の大阪府議(当時)という立場ではなく、一個人としてボランティアをしていたと言うのです。吉村市長は、阪神淡路大震災でも他の大きな災害でも、ボランティアとして真っ先に現場に駆けつけていたので、東日本大震災でも行くのは当然だと考えたそうです。休みが取れるたびに自腹で活動。格安航空券で仙台に飛び、助けが必要なところへレンタカーで向かっていたと言うのです。

(昨年も無事に実った2024年の稲刈り)

そうした個人活動を続けるうち、被害の少ない各自治体が継続支援先を分担することになりました。これは「カウンターパート方式」と呼ばれ、大阪府と和歌山県が岩手県の支援を担当、そして富田林市が大槌町の担当となったことが奇跡の復興米を通じた交流のすべての始まりとなりました。

(2024年田植えの時に振舞われた復興米茶粥)

吉村府議(当時)は「大槌町の頑張りを富田林市民に伝えなければ」との思いで、ボランティアのひとりとしてがれき除去の活動をしながら、現地の人に話を聞いてまわりました。大槌町の町長や町職員をはじめ、いろんな団体の人に。一部ですが主な団体を挙げると次の通りです。


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  • 水産加工会社が立ち上げた「立ち上がれ!ど真ん中・おおつち」さん
  • 仮設倉庫で農産物の販売や仮設住宅への移動販売を行っていた「結ゆい」さん
  • ボランティアのための仮設食堂を立ち上げた「マリンマザーズきりきり」さん
  • 町内のがれきを「かげがえのない故郷の一部」として再加工してキーホルダーを作った「和RING-PROJECT」さん
  • 蔵が流出しても県内のほかの酒蔵で酒造りを継続した「赤武酒造」さん など

このほか、地元の消防団の活動も忘れられないとのこと。半鐘を鳴らしながら亡くなった団員もいたそうで、その事実を知って欲しいとの思いから河内音頭を作ってもらいました。ただ河内音頭にする条件として現地の方々に「美談にだけにはしないで欲しい。足跡だけだったら良い」と言われたそうです。

3、ついに門外不出の稲穂を譲り受け

(2024年に実った稲)

ボランティア活動で大槌町の様々な団体との話を聞いていた吉村府議は、大槌復興米の活動を行っていた「遠野まごころねっと」の皆さんのことも知ります。そして現在は大槌町の町議となっている臼澤良一さんに水田を案内して貰ったのです。

(喜志にある奇跡の復興米栽培田)

このとき吉村府議は、ボランティア活動を通じて、奇跡の復興米の稲穂を富田林にわけて頂くことができないかと考えていました。地域の人の頑張りを聞いたことを富田林の市民に伝えるだけでなく、そのシンボルともいえる稲穂を持ち帰り、それを富田林市内で育成すれば、その頑張りがより市民に伝わりやすいと考えたからです。

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そこで吉村府議は「できればこのお米を富田林で栽培したいので、種もみを譲ってほしい」と申し出ました。しかし、臼澤さんは首を横に振り「お気持ちは嬉しいが」と。理由として、この米は地域の復興のシンボルで門外不出にしているからと言われたのです。


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(田植え前に小学生に復興米への思いを伝える吉村市長)

(富田林和太鼓まつりでメッセージを送ってくださった白澤さん)

しかし、吉村府議は簡単には諦めませんでした。なぜならば、このころから被災地以外の地域では「東日本大震災の記憶の風化」が指摘され始めていたからです。吉村府議は「忘れないこと」「関心を持ち続けること」「小さくても何らかの形で関わり続けること」と常に考えていたので、継続してお願いを続けたのです。

(2024年の田植え)

そんな吉村府議の願いが通じたのは、2014(平成26)年2月のことでした。「吉村府議の強い気持ちが伝わりました。富田林の皆さんを信用し、お譲りします」とついに種もみを譲ってくれることになったのです。

(遠野まごころネットより奇跡の復興米の種もみと精米を受け取っている吉村府議(当時) 画像提供:富田林市)

吉村府議はこの電話を受けた時、涙が溢れる思いでした。喜んですぐに現場に飛び立ちます。日帰りの予定で大槌町に行き、こうして1㎏の種もみを譲り受けました。ところがここで意外なアクシデントがあります。大槌町は太平洋側だったのですが、この時珍しく大雪に見舞われたのです。

(富田林和太鼓まつりでメッセージを送ってくださった平野大槌町町長)

日帰りの予定が困難となり、どうにか東京までたどり着いた吉村府議は、カプセルホテルで1泊することになりました。「大事な種もみだから絶対に無くしてはいけない」と1㎏の種もみを胸に抱きかかえながら一夜を過ごし、翌日富田林に戻りました。

4、貴重な稲穂を富田林に持ち帰ってからの11年

(奇跡の復興米について時系列で票にしました)

奇跡の復興米の種もみを無事に富田林に持ち帰った吉村府議は、稲作の専門家であるJA大阪南の中谷組合長(代表理事)に相談しました。「ひとめぼれ」は主に東北で栽培される早生の早品種です。実際に稲刈りに立ち会ったことがありますが、富田林のほかの地域で栽培している品種よりも、1ヵ月以上早く収穫されます。

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(復興米の苗を持つJA関係者と吉村府議(当時) 画像提供:富田林市)

種もみから苗まで育てる際に、JAの担当者も「東北と富田林とでは気温差がある」と相当プレッシャーを感じながら作業に取り掛かかったそうです。苗床の湯の温度を高めに保たせたことで4日目に芽が出て、およそ1ヵ月で苗に育ちました。


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(2014年に初めて行われた復興米の田植え 画像提供:富田林市)

その後、奇跡の復興米は喜志地区のボランティアグループ「喜翔会」のメンバーが所有する水田で育てることになりました。

(2014年に初めて行われた復興米の稲刈り 画像提供:富田林市)

喜志で行うので、近くの喜志小学校の5年生が田植えを行うことになり、5月25日に初めての田植えを実施。もちろん各種メディアも取材に駆け付けたとのこと。

(大槌町復興のために先月行われた富田林和太鼓まつり)

そして9月に初めての稲刈りが行われ、ついに富田林でも奇跡の復興米の栽培が無事に終了しました。大槌町が「富田林を信用している」との言葉通りになりましたね。以下、2年目以降の主な事業活動を紹介しましょう。

(富田林で採れたお米が大槌町に里帰りし、給食で活用された写真 画像提供:富田林市役所)

  • 復興米のバケツ稲栽培キットで栽培開始。喜志小学校と東条小学校の教育田に栽培
  • 80名程度の「親子田植・稲刈り農業体験ツアー」を募集。収穫した米の一部を被災地に贈呈
  • 収穫した米の一部は富田林農業祭でおにぎりとして700個を配布
  • 天王寺動物園に稲わら200kgを進呈し動物の飼育管理用として利用
  • 大槌町への里帰りとしての米を進呈
  • 熊本地震の被災地益城町に米を進呈
  • 児童養護施設・高鷲学園へ精米30kgと地元産の野菜を進呈
  • 市役所内で「被災地から学ぶ防災パネル展」を展示
  • 大槌町の平野町長が富田林に来訪、復興米パネルコーナーの設置と岩手県の農産物のPR販売
  • 震災10年目になって震災の風化を防ぐために、新たに4つの小学校でミニ水田を設置して栽培を開始
  • 小学5年生による「復興米ミュージカル」「復興米劇」
  • 千早赤阪村の下赤阪の棚田で早乙女姿の女性による田植え など

、大槌町からも認められた吉村市長の原点は

では、吉村市長が府議時代になぜそこまでしてボランティアを続けたのか、また大槌町から門外不出とされた復興米の種もみを譲り受けるまで信頼されたのでしょうか?そのバックボーンが気になった私は、せっかくなので吉村市長の生い立ちについてもお伺いすることにしました。


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(富田林駅南側)

吉村市長は富田林駅の南側に当時多数あった市場の中の八百屋さんの家で生まれました。その八百屋さんには地域の人が始終遊びに来ていて、誰かしらいるという状態だったそうです。そこでいろんな世間話をしているうち、悩みなどの相談ごとも自然に出てきました。ご両親はそんな困りごとがあれば、すぐに町会長や市役所に積極的に相談しようという気質の人でした。そんな大人たちの助け合いの様子を物心ついた時から目の当たりにしていたのす。


そんな吉村少年は、小学4年生の時になんと脳腫瘍になってしまい、12時間もの大手術を受けました。入院先は河内長野にある現大阪南医療センターです。手術は無事に終わり、入院生活を続けていた吉村少年を、毎日、同級生や先生がお見舞いに来てくれていました。


(譲り受けた奇跡の復興米が育つ様子:画像提供富田林市)

「ほんとうに毎日。富田林から電車に乗って汐ノ宮駅で降りて歩いて来てくれていた」そう言って目を潤ませる吉村市長。同級生、友達、先生に励まされながら「一緒に頑張りたい」との思いが当時の吉村少年の心の中に染みわたりました。

中学校には障がいをもつ同級生もいました。それを見た吉村少年は迷うことなく「いっしょにやろう!」と、その同級生を誘って一緒に文化祭などの学校活動を過ごしました。助け合うことや協力することが身についていたのです。


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(下水分社にわか連喜楽座の公演にも大槌町がテーマになった)

中学卒業後、府立金剛高校に進学しラグビー部に所属。中学に続いて高校でも生徒会長になりました。その後近畿大学に進学します。近大在学中に地方自治法の授業を受けた時に「地方自治体は市民の幸福のためにある」ということを知ります。これが政治家への道を進むきっかけにつながりました。

大学卒業後、自治会活動をしていた25歳の吉村青年(当時)に転機が訪れました。「市議選に出ないか」と周りからの後押しがあり、立候補することになったのです。「通るかなあ」心配していた吉村青年でしたが、周りの人は「24人通るんや。たぶんいけるで」と言われたので、生徒会に立候補するような気持で1991年の富田林市議選に初めて立候補しました。

(富田林和太鼓まつりで、奇跡の復興米について語る吉村市長)

26歳の吉村青年は地盤も何もないのに同級生や友人の助けもあり、いきなり3,000票もの得票数を得て当選しました。1,000票以上あれば当選する可能性がある中でのことですから、いかに高い得票だったのかがわかります。そして大阪府下で最年少議員でした。

6、市長として大槌町と包括連携協定を結ぶ

2019(平成31)年に市長選に立候補して当選を果たし、富田林市長に就任します。ボランティアを続けていたことで人脈も築いていた大槌町との関係を深めたいと考えた吉村市長は、その2年後の2021(令和2)年に、大槌町と包括連携協定(外部リンク)を結びました。


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  • 市及び町のPR・住民相互の交流に関すること
  • 地域の活性化に関すること
  • 防災に関すること
  • その他本協定の目的に沿った取組に関すること 
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(農業祭で振舞われた復興米のおにぎり 画像提供:富田林市)

吉村市長は「命の繋がりを大事にしたいから」と言います。復興米事業が始まって11年が経過し、初めて田植えや稲刈りに参加した児もすでに成人になりました。

(農業祭で振舞われた復興米のおにぎりを食べる子どももたち 画像提供:富田林市)

「20歳の集いの時に、すっかり大人になったあの時の児童が、田植えをしたと話してくれました。11年の年月を感じます」と吉村市長は目を細めていました。


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2月に行われた富田林和太鼓まつりも、大槌町の支援事業として行われました。復興と和太鼓はつながっている。

これは物理的につながっているのではなく、あの時の記憶を忘れてはいけないために続けている。

(和太鼓まつりに設置された募金箱)

つまり「#知り続ける」という思いが、多くの富田林市民の気持ちの中にあるのです。

吉村市長は、いろんな立場と一緒になる多文化共生はこれからも続けていきたいとのこと。特に気になった言葉として「人口の増減の尺度とは違う意味での市政の発展。市民にいろんな立場の人と一緒につながることの大切さを伝えていきたい」と言いました。


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最後に市民に伝えたいこととして「政治は人の幸せのためにある」「誰ひとり不安にさせない」「地域みんなで助け合う社会を」という気持ちを持ち、「命ある限り、政治家として富田林に恩返しがしたい」と。富田林市役所からの帰りに富田林西口駅に向かいながら、吉村市長の強い信念から生まれた言葉が繰り返し頭の中で回っていました。

(2024年に刈り取られた稲)

それにしても、もし富田林市が大槌町のカウンターパートにならなかったら、奇跡の復興米が富田林に来なかった可能性も考えらます。そういう意味でも奇跡としか言いようがない。奇跡の復興米は富田林に確かにありました。


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富田林市役所

住所:大阪府富田林市常盤町1−1
アクセス:近鉄富田林西口駅から徒歩5分

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この記事を書いた人

奥河内から情報発信
大阪府河内長野市在住の地域ライター・文筆家。2021年に縁もゆかりもない河内長野に移住し「よそ者」の立場で地元の魅力・町が元気になるような唯一無二の文章執筆、情報を発信しています。

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