【河内長野市】クリスマスだから考えた!昔のキリシタンではなく今のキリスト教会につながる伝道師と学校

河内長野の歴史

今日はクリスマスイブで明日がクリスマス。「まち」にはイルミやサンタクロースであふれ、1年の最終のお祭りのようになっていますが、本来クリスマスとはキリスト教のイエスキリストの誕生をお祝いする日です。



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ヤコブはマリアの夫ヨセフをもうけた。このマリアからメシアと呼ばれるイエスがお生まれになった。 引用元:聖書協会共同訳マタイによる福音書/ 01章 16節

さて、河内長野とキリスト教の接点を考えた場合、多くは戦国時代にフランシスコ・ザビエルが伝えたキリスト教が河内一帯で広がった話になります。例えば烏帽子形城の周りに多くのキリシタンがいたということや、流谷などで隠れキリシタン伝承があるという話を最初に思いつきます。

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(流谷の十三石仏も隠れキリシタン伝承が指摘される)

とはいえ、これらのキリシタンは豊臣秀吉の伴天連追放令やその後の江戸幕府による禁教令により、長崎の一部などを除いてほぼ消滅したとされます。



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(天保七年滝畑村の宗旨御改帳)

そして江戸時代を通して、村人たちが仏教信者(キリシタンではない)であることを示すために、真言宗や融通念仏宗などの寺院の檀家になっている証明を、「宗旨御改帳」として村ごとに提出させられたそうです。

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(1884年に着工、1891年に竣工した日本ハリスト正教会の東京復活大聖堂)

そして、開国後の明治時代になると再びキリスト教が日本に入り、その時の伝道成果が今も続いています。そこで今年のクリスマスは、明治以降に入ってきたキリスト教と河内長野との関わりについて確認していこうと思います。

明治10年代から始まった伝道

河内長野にキリスト教が入ってきたのは明治10年代頃からといわれていて、伝道をしたのはアメリカ人のアレクサンダー・ダーハム・ヘール(A.D.ヘール)とジョン・バックスター・ヘール(J.B.ヘール)の兄弟です。



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戦国時代の時にはローマカトリック教会が日本で宣教をしていましたが、明治時代はカトリック教会に加えて多くのプロテスタント教会も日本に宣教に来ていてます。ヘール兄弟もプロテスタントの宣教師でした。

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(旧川口居留地にある川口基督教会)

1877(明治10)年1月に弟が先に来日し、そのあと兄が来日したそうで、当初は大阪市内にある大阪外国人居留地(旧川口居留地)に住んで伝道を開始しました。やがて和歌山方面に宣教への旅を行いますが、その時は草鞋(わらじ)を履いて伝道していたとのこと。

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戦国時代の場合は、長い戦争が続いた世の中で疲弊していた事に加え、観心寺や金剛寺などの有力寺院が寺の中に町を作ってミニ国家のように独立した勢力で僧兵などで武装していた時代でした。そういった殺伐とした世の中だったので、新しく入ってきた今まで聞いたこともない教えに、多くの人が感動してキリスト教を受け入れます。



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(和歌山県田辺市本宮にある湯の峯温泉)

しかし、明治時代の場合は長い間禁教だったことで、キリスト教が「悪い教え」という認識が一般の人にあったため、伝道はとても苦労したそうです。さて、新宮とキリスリト教という論文(外部リンク)によれば、1883(明治16)年11月、米国の宣教師A.D.ヘールが和歌山の田辺から熊野本宮を経て熊野川を下り新宮まで伝道に来たとのこと。そこで大石余平と薪屋鶴次のふたりが、ヘール宣教師から新宮で初めて洗礼を受けたとの記録が残っています。

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(平野の町並み)

1884(明治17)年にウヰ(イ)ルミナ女学校(現大阪女学院)を設立したヘール兄弟。やがて弟が学校運営を任され、兄が河内長野をはじめ富田村(摂津富田)、八尾、平野、四日市、上野(伊賀)、伊勢などにも赴いて伝道したとのこと。

(河内長野教会の礼拝堂)

そして兄のA.D.ヘールが伝道した結果、クリスチャンが河内長野でも誕生し、現在の日本キリスト(基督)教団河内長野教会誕生につながりました。

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(大阪女学院千代田グラウンドは緑ヶ丘中町バス停のすぐ近くにある)

ちなみに大阪女学院は大阪市内の玉造に学校がありますが、偶然にも大阪女学院 千代田グラウンドが緑ヶ丘の東隣。小山田町にあり、河内長野との接点を感じます。



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河内長野に誕生した教会の意外な前身

河内長野教会が誕生したのは、日本基督長野講義所設立認可申請書を大阪府知事宛てに提出した日、1905(明治38)年7月18日なので2025年がちょうど設立120年となります。そして河内長野教会創立 120 周年(外部リンク)には非常に興味深い記述がありました。

それは教会ができる前のこと。1901 年に長野神社の社務所で日曜学校(教会学校)を開設したといいます。神社という異なる宗教の施設内でキリスト教を子どもたちに教える場所があったというのには本当に驚きです。

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さらに次の年にA.D.ヘール夫妻が河内長野に来てクリスマス会を行ったというのですが、その場所が喜多町の大日寺です。寺という仏教寺院でクリスマスというのも驚きですが、実はこのころには廃仏毀釈の関係で、明治の初めに大日寺はすでに廃寺となっていたそうです。



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(大日寺境内にあるキリシタンゆかりのヤソ地蔵。中央に十字らしきものが見える)

大日寺のあった場所には、戦国時代のキリシタン由来のものが残っているとされ、境内にヤソ地蔵と呼ばれる地蔵菩薩が安置しています。さらにヤソブ(耶蘇部)の地名が近くに残っていたため、かつてキリスト教の教会堂があったという伝承がある場所です。

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(現在は大日寺老人憩い会館)

いずれも教会という拠点が無かったからという事情はあるにせよ、異教の教育やお祭りに境内や施設を貸し出した当時の神社や寺、村内の関係者がすごいと思いました。今のように、当時から河内長野の人々はよそ者に優しかったのでしょうか?

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また女子のクリスマス会は別のところで行われ、それが西條家隠居所とのこと。これはあくまで推測になってしまいますが、この「西條家」は、大日寺と場所が近いことから西條酒造(天野酒)と関係があるかもしれません。



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キリスト教系高校「清教学園」ができたいきさつと姉妹都市のつながり

(清教学園幼稚園)

その後、⼤阪⻑野教会(河内長野教会)は1948年に現在の清教学園幼稚園のある場所に教育機関「清教塾」を設立しますが、これが現在の清教学園につながります。清教塾生たちは何故祈ったのか(外部リンク)によると、清教塾には教会内外から多数の塾生が集まったそうです。

(清教学園への入り口)

塾で学んだ塾生たちはその後「学校を作るんだ」と資金集めに奔走したとのこと。「膨大なお金がかかる」という反対もあったそうですが、塾生たちの頑張りにより、1951年に古野町に清教学園中学校が開校し、1967年に現在地に移転したそうです。

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その後の清教学園は国際化にいち早く着手し、英語科を導入したり、海外の修学旅行を行ったりします。そして1988年 アメリカのカーメル市にあるカーメル中学校と姉妹校提携を結び、以降カーメル市と活発な交流ができます。

(昨年カーメルから河内長野に来た若者)

そのことがきっかけとなり、6年後の1994年に河内長野市とカーメル市が姉妹都市の調印を行われました。

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今回はクリスマスということで、河内長野とキリスト教について、昔のキリシタンではなく、今のキリスト教会につながる伝道師(ヘール兄弟)と学校(清教学園)について解説しました。



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(南花台キリスト教会)

今回は河内長野教会のことが中心となりましたが、河内長野市内には、確認できた範囲で以下のキリスト教会があります。

  • 日本キリスト教団河内長野教会
  • 日本キリスト教団河内長野みぎわ教会
  • 日本メノナイト・ブレザレン教団河内長野聖書教会
  • 南花台キリスト教会
  • 千代田福音教会
  • ガリラヤ・チャーチ
  • ニューライフキリスト教会

日本キリスト教団河内長野教会

住所:大阪府河内長野市西代町10-19
アクセス:南海・近鉄河内長野駅から徒歩12分

清教学園中学校・高等学校

住所:大阪府河内長野市末広町623
アクセス:南海・近鉄河内長野駅から徒歩15分

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この記事を書いた人

奥河内から情報発信
大阪府河内長野市在住の地域ライター・文筆家。2021年に縁もゆかりもない河内長野に移住し「よそ者」の立場で地元の魅力・町が元気になるような唯一無二の文章執筆、情報を発信しています。

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