太子町には磯長谷古墳群(しながだにこふんぐん)と呼ばれる、聖徳太子をはじめ複数の天皇陵や小野妹子の墓などがあります。そんな中、竹内街道沿いに古墳への入口があるのが孝德(こうとく)天皇陵こと山田上ノ山古墳です。
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孝徳天皇についておさらいすると、第36代目の天皇で推古天皇4年(西暦596年)に生まれています。敏達天皇のひ孫にあたり、先代の皇極天皇(次代の斉明天皇)の同母弟で、天智天皇と天武天皇の叔父です。
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竹内街道沿いの入り口にあるのは、大坂(阪)磯長陵(おおさかのしながのみささぎ)道と刻まれた石碑です。
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孝徳天皇の即位前は軽皇子(かるのみこ)とよばれました。当時は蘇我馬子から続く蝦夷、入鹿と蘇我氏が政治の実権を握っていた時代でした。皇極天皇2年11月1日(643年12月16日)に蘇我入鹿は聖徳太子の子、山背大兄王(やましろのおおえのおう)ら上宮王家を攻めて滅亡させますが、それに軽皇子も加わっていたという説があります。
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その後、蘇我氏が実権を握ったことを快く思わなかった中臣(藤原)鎌足が蘇我氏打倒を計画し、最初に軽皇子に接近しました。しかし中臣鎌足は、その後、中大兄皇子(天智天皇)に接近し、意気投合します。
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軽皇子が数え年50歳の時、姉の皇極天皇4年6月12日(645年7月10日)に、乙巳の変(いっしのへん)が起こりました。ついに中大兄皇子と中臣鎌足が蘇我氏打倒に動き、最初に蘇我入鹿を暗殺、次に入鹿の父の蘇我蝦夷が館に火を放って自殺します。こうしてこれまで権力を握っていた蘇我本宗家が滅亡します。
※皇極天皇4年 当時は元号がなかったので、こういう表記になっています。
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蘇我氏が滅亡すると、皇極天皇は退位を決めて子の中大兄皇子に位を譲ろうとしますが、中大兄皇子は辞退し、代わりに軽皇子を推薦しました。
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軽皇子は3度辞退したとされ、蘇我入鹿が皇極天皇の後に皇位につけさせようと考えた古人大兄皇子(ふるひとのおおえのみこ)を推薦するものの、すでに後ろ盾だった蘇我本宗家は滅ぼされたこともあり、古人大兄皇子も辞退して出家してしまいました。
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結局、軽皇子が譲位を受けて即位し、孝徳天皇となります。その際にそれまでなかった元号を史上初めて制定し、「大化元年」としました。そして孝徳天皇が即位した後から翌年にかけて、様々な分野で制度改革を行ったと日本書紀が伝えています。
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(天皇陵の近くではイノシシが出没する可能性があります)
それからの数年間(大化年間)の改革を「大化の改新」と呼ぶのですが、それは狭義の場合で、広義には701年の大宝律令完成までに行われた一連の改革を含むとされます。
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そして大化元年12月に、孝徳天皇は都を難波長柄豊碕に遷します。これが難波長柄豊碕宮(なにわのながらのとよさきのみや)で、大阪市内の上町台地の上にあり、前期難波宮と呼ばれるものです。
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(大阪城は難波宮跡の北側に建つ)
日本書紀には次のように記載されています。
冬十二月乙未朔癸卯、天皇遷都難波長柄豐碕。老人等相謂之曰。自春至夏、鼠向難波、遷都之兆也。
(冬十二月九日、天皇は都を難波長柄豊琦に移された。老人たちは語り合い、「春から夏にかけて、鼠が難波の方に向かったのは、都遷りの前兆だった」と言った。)引用元:日本書紀 天萬豐日天皇 孝德天皇
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ちなみに跡地は国の史跡「難波宮跡 附 法円坂遺跡」に指定されています。そして孝徳天皇は初めて大坂(大阪)に都を造営した天皇となります。
※注:調べると応神天皇の難波大隅宮(大阪市東淀川区)、仁徳天皇の難波高津宮(大阪市中央区)という記載もあるのですが、考古学的に特定されていない場合が多く、一般の遷都論の通説では推古天皇以降から語られるとされます。そのため、今回は孝徳天皇の難波長柄豊碕宮を大阪最初の都としています。
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また、孝徳天皇は難波宮への遷都後、大化2年9月には、道の駅くろまろの郷のモデルとなった高向玄理(たかむこのくろまろ)を朝鮮半島の新羅に遣わしたとのこと。さらに晩年の白雉5年(654年)には、高向玄理を押使(おうし/すべつかい)に任命して遣唐使を送ったとあります。

天皇陵のため宮内庁が管理している場所です。手前に警察官立寄所があります。
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天皇陵が見えてきました。

高向玄理を唐に派遣した同じ年の秋に天皇は病にかかり、10月10日に崩御(ほうぎょ:天皇の死)します。そして12月8日に、この大坂磯長陵に葬られました。また朝鮮半島にあった高句麗、百済、新羅の3国から弔使を派遣されたとあります。その後、皇位は前天皇だった姉が再び即位(重祚:ちょうそ)して、斉明天皇となりました。
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ということで大阪(坂)磯長陵の前に来ましたが、ほかの天皇陵と違い、正面ではなく横からになります。
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画像から見て右側に天皇陵があります。

理由は正面は崖になっているためです。ここで古墳としての山田上ノ山古墳(やまだうえのやまこふん)として見た場合、地形的には二上山から西側に派生して存在する丘陵の先端部に築造されているとのこと。
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円墳で直径が32メートルありますが、天皇陵とされているため発掘などの調査は行われていません。
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太子町観光協会(外部リンク)よれば、「鶯の陵」と呼ばれたことから、「枕草子」の「うぐひすのみささぎ」のことではと考えられてきたそうです。ただし、「うぐひすのみささぎ」は奈良県奈良市春日野町にある鶯塚古墳(うぐいすづかこふん)という説もあります。

また江戸時代には北山陵と称されていたそうです。
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帰り際に坂を下りる途中、ちょうど天皇陵の正面と思われるあたりから見上げてみましたが、下からはよくわかりませんでした。
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ちょうど夕暮れ時なので空がオレンジ色に染まろうとしています。そして富田林方面ということもあり、PLの塔が見えました。
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ということで孝徳天皇陵こと大阪磯長陵(山田上ノ山古墳)をご紹介しました。太子町は古代歴史の形跡が多数残されていることを改めて感じました。
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孝徳天皇陵(大阪磯長陵、山田上ノ山古墳)
住所:大阪府南河内郡太子町大字山田
アクセス:六枚橋東バス停より徒歩13分
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この記事を書いた人
奥河内から情報発信
大阪府河内長野市在住の地域ライター・文筆家。2021年に縁もゆかりもない河内長野に移住し「よそ者」の立場で地元の魅力・町が元気になるような唯一無二の文章執筆、情報を発信しています。



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